番号 は地図のポイント番号です
甲東地区は、地理的には上ヶ原台地(仁川、上ヶ原、上甲東園など)と武庫平野の一部(段上(だんじょう)、大市(おおいち)、門戸(もんど)、神呪(かんのう)、樋之口(ひのくち)など)から構成されます。明治22(1889)年、全国的な市町村整備に伴い、上(かみ)大市、下(しも)大市、段上、門戸、神呪、上ヶ原新田、樋之口新田の各村が合併しましたが、それが甲山の東に位置する地区であったことから「甲東村」と命名されました。現在、甲東支所のある「甲東園」の名称は甲東村命名の後からつけられました。甲東村は、その後、昭和16(1941)年に西宮市と合併しました。
甲東地区の歴史は古く、上ヶ原台地では弥生時代の遺跡や7世紀ごろの古墳が多数見つかっています。稲作が本格化すると人びとは上ヶ原台地を離れ、武庫平野で生活するようになりますが、江戸時代の新田開発により、上ヶ原が開墾されました。
台地である上ヶ原、天井(てんじょう)川である仁川といった地形的特徴をもつ甲東地区の歴史は、農業用水の確保をめぐるドラマの歴史と言えます。仁川の取水権をめぐる社家郷(しゃけごう)との争い、江戸時代に作られた上ヶ原用水、百間樋(ひゃっけんび)などはその例です。
甲東地区には京都と九州を結ぶ「西国(さいごく)街道」が通っていました。道標や一里山の町名などにそのなごりがあります。現在は、山陽新幹線が京都と九州を結んでいます。
阪神淡路大震災では、甲東地区も大きな被害を受けました。仁川百合野(ゆりの)町では大規模な地すべりが発生し、多くの尊い命が奪われました。自然と人びとの生活、防災のあり方について改めて考えさせられるできごとでした。
甲東地区は、寺子屋の時代から教育熱心な土地柄でした。明治6(1873)年の門戸小学校の開校、大市・神呪の篤(とく)農家の輩出、関西(かんせい)学院等の大学・高校の移設・設立、昭和33(1958)年の文教地区の指定などがその例です。
この地区には歴史を語る多くの文化財があります。その多くには甲東文化財保存会が設置した説明板があります。散歩しながら歴史を学びやすい環境にある地区でもあります。
仁川右岸の斜面で、幅・長さともに約100m厚さ15mの地すべりが起きました。約10万m3の土砂がすべり出し、そのうち4万m3が仁川を埋めるとともに、家屋13戸を押しつぶして、34名もの命を奪いました。これは平成7(1995)年の兵庫県南部地震により発生した土砂災害のうちで、もっとも大きな被害でした。
この場所で予期せぬ地すべりが起きた理由として、斜面が盛り土で形成されていたこと、地層が下部で二重構造となっていてすべり面が隠れていたこと、地中に水を多く含んでいたこと、斜面に植林されたハリエンジュ(ニセアカシア)の根では充分に土を掴(つか)むことができなかったこと、マグニチュード7.2の激震で一気に揺すられたことなどが考えられています。
復旧は、外側から地すべりを力で止める各種ブロックと、上昇する地下水を排除するための井戸、地盤を止める杭(くい)、山からの土砂流出対策の流路などの工法と共に、観察システムの完備により整いました。平成9(1997)年11月18日の土木の日にオープンしたこの資料館1では、これらが写真やジオラマなどによって学習できます。また、外に出れば実物を一部見ることもできます。
太古の昔、仁川は扇状(せんじょう)地を形成しました。それが隆起(りゅうき)したのが上ヶ原台地です。弥生(やよい)時代の遺跡や7世紀ごろの古墳は、人びとが好んでこの地に居住していたことを物語っています。ところが、稲作が本格化するにつれ、水が少ない上ヶ原台地から人々は離れていきました。江戸時代初期まで上ヶ原は山林のままでした。江戸時代になって各地で水田開発がなされるようになると、もともと平らな形状の上ヶ原台地も注目され始めました。
大坂の佃(つくだ)村の孫右衛門(まごえもん)と九左衛門は、神崎(かんざき)川の出水防止に尽力をしたのですが、これを尼崎藩主青山大膳亮幸利(だいぜんのすけよしとし)が認め、彼らに上ヶ原台地の開発権を与えました。1646年のことです。
山林の開墾で最も困ったのは水の確保でした。水源は仁川の水しかありません。仁川の水は、大市庄(おいちのしょう)が以前から利用していました。しかも、別項で述べているように、社家郷(しゃけごう)村が仁川の上流で水を取水することになった1643年以降、仁川の水量が極端に減っていました。新たに上ヶ原新田のために水利権を譲る余裕は、大市庄には実際問題としてありませんでした。
そこで、青山幸利は、社家郷村に折衝し、社家郷のために溜(ため)池を3つ掘ることを提案しました。その代わりに、湯の口での取水を減量して、仁川の下流に水を多く流すように説得したのです。こうしてできたのが、目神山大池(めがみやま)(後の神原大池、甲陽大池)と岩ヶ谷(いわがや)池(後の新池)の上池と下池です。
こういった水の確保の努力によって、1653年、ようやく上ヶ原新田は完成しました。
江戸時代の農民にとっては、ひときわ重要な意味をもっていた農業用の溜池ですが、現在ではその需要がずいぶんと減ってしまいました。甲陽大池は一部が埋め立てられて甲陽園小学校となり、残りの池はトンボの生息地として知られるようになりました。新池の上池は埋め立てられて市立西宮高等学校になり、下池は整備されて、野鳥の浮島(うきしま)と釣りデッキが作られました。また、別項で述べています五ヶ池は、上池がボート場に、下池が埋め立てられてテニスコートになっています。しかし、規模は縮小されたものの、これらの池は溜池としての機能を現在も果たしています。
前項において、上ヶ原新田の開発では、仁川の水を引いてきて完成することができたと述べました。しかしながら、それは決して簡単なことではありませんでした。
上ヶ原台地は標高40〜80m。仁川の水を汲み上げるにしても、20mの落差を克服しなければなりません。桶(おけ)に水を汲んで坂道を登るといったことを繰り返しても焼け石に水でした。そこで考えたのが次のアイデアです。仁川を遡(さかのぼ)り、上ヶ原台地と同じぐらいの標高の地点に行き、そこから樋を使って水を台地に供給するのです。人びとは大井滝2(写真)からの約800m の長さを竹製の樋を作ったり溝を掘ったりして水を引き込む工事をしました。こうして1653年に待望の上ヶ原新田が開発されました。
竹製の樋ですので、頻繁に壊れました。その度に修復工事をしていたのですが、1766年の暴風雨に大井滝用水は大破してしまいました。樋の一部を岩穴(トンネル)に代えた用水路を1770年に完成させましたが、1774年の大雨でまたもや大破してしまいました。
今度は大掛かりな工事をしました。仁川の壁面の岩盤に長さ70間(126m)、高さ3尺5寸(106cm)、幅1尺8寸(55cm)、の用水路トンネルを掘りました。ドリルのなかった当時のこと、しかも絶壁という危険な箇所での工事ですので、想像を絶する労力と犠牲が払われたと思われます。着工後38年たった1802年に、トンネル126m を含む全長800mの用水路がついに完成しました。今の上ヶ原用水路です。200年たった現在でも、仁川の大井滝から、地すべり資料館のホタル護岸のところを経由して関西(かんせい)学院の馬術部厩舎(きゅうしゃ)裏の分水樋(ぶんすいひ)まで、清らかな水が滔滔(とうとう)と流れています。
別項で述べていますように、中村治部(じぶ)紋左衛門の功績により、1643年から仁川の水は社家郷(しゃけごう)村によって上流で取水されるようになりました。また、1653年、上ヶ原新田の開発の際、尼崎藩主青山大膳亮幸利(だいぜんのすけよしとし)の裁定により、新池と甲陽大池を掘る代わりに社家郷の仁川からの取水量を減らして下流に多く水を流すことになりました。
そこで問題となったのは、新田が開発される以前から仁川の水を利用していた大市庄(おいちのしょう)と、新たにできた上ヶ原新田との間でどう水を分配するかという問題です。何度かの争議の後、やはり青山幸成の裁定によって、大井滝の地点で、上ヶ原7割、大市庄3割に分水することが決められました。だだし、この時、大市庄のうち、上(かみ)大市、下(しも)大市、段上(だんじょう)には実際に水の分配があったのですが、門戸(もんど)、神呪(かんのう)については、名目のみで配水はありませんでした。
1856〜57年、仁川に溜(ため)池をふたつ掘ることになりました。五ヶ池です。その際、上池(現在の五ヶ池)を大市五ヶ村と上ヶ原、下池(現在はテニスコート)を門戸と神呪が担当して普請(ふしん)しました。この功績が認められて、門戸と神呪が上ヶ原用水の一部を配水してもらうことになりました。分配率は、上ヶ原3尺6寸2分(110cm)、門戸5寸6分(17cm)、神呪6寸6分(20cm)です。これらの長さは、用水を堰(せ)き止めた板の切り込みの長さです。こうやって、正確に水量を、それぞれ74.8%、11.6%、13.6%に分けたのです。合理的な知恵です。
この分水樋(ぶんすいひ)3が完成したのが1857年。以来、144年間、変わらずに現在でも水を分配しています。分水樋から上ヶ原に流れる用水路は「大川(おおかわ)」と呼ばれました。この大川から取水する権利のある田畑は順に、一番割(わり)、二番割、三番割……と呼ばれ、十二番割までありました。これが現在の上ヶ原一番町、上ヶ原二番町……に対応しています。ただし、十一番割と十二番割は他の地域と合併して、上ヶ原山田町、上ヶ原山手町になりました。
仁川上流での取水を巡って繰り広げられた中村治部(じぶ)紋左衛門の話は、その事実関係については、広田地区に記載されているとおりです。しかし、この事件に対する大市庄(おいちのしょう)(甲東)の人々の捉え方は少し違っていたようです。
現在の地図では北を上に描くので、仁川は左右に伸びています。しかしながら、水は上から下に流れるものですから、大市庄の人々の感覚では、甲山が上で、武庫川が下、そして仁川が上から下に流れるものでした。『甲東村土地宝典』(昭和15〔1940〕年)に掲載されている「兵庫県武庫郡甲東村全略図」は、この世界観を雄弁に表現するもので、やはり、仁川は上から下に流れるように描かれています。
この世界観から見ると、社家郷山(しゃけごうやま)の湯の口での取水は、「横取り」と映ります。湯の口は、甲山の「奥」であって、甲山のふもと(兜麓(とろく))ではありません。甲山のふもとは、あくまでも現仁川百合野(ゆりの)町付近です。こういうこともあって、大市庄の歴史書には、中村紋左衛門は英雄ではなく、なんと詐欺師のようにして描写されています。
農民同士の争いを回避しつつ仁川の水を広田村等に取水したのは中村紋左衛門の功績ですが、湯の口ですべての水を取るのではなく、下流の農民のためにも水を残しておいたことにも注目したいものです。もし、全部の水を取水していたら、いくら「天狗(てんぐ)」が出没したとしても、大市庄の農民たちは、それこそ命がけで決起したことでしょう。中村紋左衛門の隠れたファインプレーと言えるでしょう。
段上(だんじょう)と大市(おおいち)は、直接仁川から取水していました。その後、段上村は、武庫川の渇水に悩まされました。庄屋松山五郎右衛門は村人とはかり、4年の歳月をかけ、仁川右岸の岸壁に穴をうがち大井滝から水を段上まで引きました。上述の上ヶ原用水と仁川の間に流れる用水路です。これは「山之井(やまのゆ)」と呼ばれ、長年の水不足を解消することができましたが、他村との争いを起こし、大坂町奉行所の裁定を仰ぐことになりました。
1824年、村を挙げて勝訴の祈願を行った満願の日に奉行所の裁定が下り、ついに仁川の利水権を得ることができました。昭和56(1981)年「山之井」の顕彰碑(けんしょうひ)4が、段上墓地の横に建てられました。
上ヶ原浄水場内古墳5は、上ヶ原浄水場の中に入ってすぐ南側にあります。古墳時代の後期約1300〜1400年前に造られたもので、封土(ほうど)の一部は流出してしまっています。直径約7mの円墳で墳丘裾(すそ)は石垣によって土留(つちどめ)がされています。玄室(げんしつ)部は露呈しており石室は片袖式の横穴式です。石材は花崗(かこう)岩を使用しています(仁川に近いので河原石を使用したと思われます)。古墳の発掘は行われておりません。
関西学院構内古墳6は、関学キャンパスの西北隅に位置しています。昭和34(1959)年3月、関西学院大学の武藤誠教授と同大学史学科学生によって発掘と調査が行われ、昭和49(1974)年3月、西宮市指定文化財に指定されました。
古墳は標高82mの地点に位置しており、古墳時代後期(6世紀〜7世紀前半)の横穴式石室を持つ円墳で、封土(ほうど)は直径約12m、高さ約3mの円墳です。入口は南に開いた狭長(きょうちょう)な平面を持ち、玄室(げんしつ)の奥行4.74m、幅1.5m、高さ2.4mです。側壁は上方へもち送って積み、幅をせばめています。天井石は4個の巨石を用いて巨大な奥壁の石とともに、この形式の古墳構築の特徴を示しています。羨道(せんどう)は西側だけが玄室よりも狭く、1.2mの幅となっています。長さは残存部で5m、高さは玄室部との境で1.6mです。副葬品は金環(きんかん)5、滑石製勾玉(かっせきせいまがたま)1、こはく製なつめ玉2、碧玉製管玉(へきぎょくせいくだたま)7、水晶製切子玉(すいしょうせいきりこだま)6、ガラス製小玉(こだま)35、鉄鏃(ぞく)(やじり)4、馬具(革帯留金具片(かわおびとめかなぐへん))1、須恵器(坩(つぼ)、坏(つき)、各1)と断片が若干です。遺骸は棺が失われており床面で大腿骨、骨片若干と歯2個体以上が出土しました。副葬品から2人以上の追葬が考えられます。なお、遺物の歯については形をとどめておくことはできず現在は消滅しています。古墳の規模は時代を経るに従い封土の流失も大きく、今より、高さ、幅も数mは越えたものであったと考えられます。尚古墳は構造や副葬品から見て集落のうちで、もっとも有力な氏族の墓といえます。
通称舟形古墳7と呼ばれる上ヶ原入組野(いりぐみの)古墳は、もともと、甲陵(こうりょう)中学校敷地の北、字(あざ)入組にありましたが、宅地開発により、現在は県立西宮高校講堂裏南に移設されています。昭和28(1953)年5月、関西(かんせい)学院大学の武藤誠教授、渡辺久雄教授によって発掘と調査が行われました。古墳はすでに開口盗掘されており、石室には須恵器(すえき)と土師器(はじき)の小片が少しありました。古墳は直径17m、高さ1.5m 余りの円墳で南に開口している横穴式石室です。奥行は2.3m、横幅66cm、高さ90cm の長方形で、羨道(せんどう)と石室の区画はなく、石室の入口より50cm 入った両壁面に、横20〜30cm、縦20〜25cm の滑らかな石が3個ずつ並べてありますが、玄室にあたる部分を区画するために工作したと思われます。古墳後期7世紀後半に築造されたもので、古墳の規模から有力者の子どもを葬ったのではないかと考えられています。
6世紀後半〜7世紀前半にかけて上ヶ原台地には、現在に残存する古墳の他に車塚古墳、天神裏古墳、関西学院構内に神呪(かんのう)池古墳が在りました。神戸浄水場周辺(大正3〔1914〕年浄水場建設により消滅)と百合野町より五ヶ山町にかけて14基ありましたが、全て開発によって消滅しています。昭和20年代半ば頃までは、関西学院周辺に古墳数十基が存在したそうです。発掘調査や分布調査の成果によって、東から南に開口する片袖式横穴式石室が内部主体であること、豊富な装飾品の遺物をもつこと、などが、この時期に造営された古墳群の特徴といえます。副葬品の中に鉄鏃(ぞく)(やじり)もありましたので、集落同士の争いもうかがうことが出来ます。大きな前方後円墳で権威を誇示した時代から群をなす後期古墳の発生は権力の分化と社会機構の変化を物語っています。遺構や遺物は先人達からの大いなるメッセージです。失ったものは、元に還りません。遺されたものを大事に護ってゆきたいものです。
上ヶ原八幡神社8の御祭神は、仲哀(ちゅうあい)天皇第4皇子である応神(おうじん)天皇で、母は神功(じんぐう)皇后です。寛文(かんぶん)3(1663) 年、徳川家綱の命により広田神社の改築が行われた砌(みぎ)り、同神社の第5殿の内の第2殿の大神をいただきこの上ヶ原の台地に鎮守様の大神として当地にお祭りされたのが八幡大神様です。上ヶ原新田の氏神(うじがみ)として人々の心の拠り所でもありました。境内には末社として、愛宕(あたご)神社(御祭神、火産霊神(カムスビノカミ))、春日神社(御祭神、天兒屋根命(アメノコヤスノミコト))、稲荷神社(御祭神、宇賀魂神(ウガタマノカミ))、金毘羅(こんぴら)神社(御祭神、大物主神(オモノヌシノカミ))の神々様がまつられています。時代を経た証として、寛文13(1673)年に尼崎七松屋が寄進した「二の鳥居」があります。西宮市で一番古く、阪神間では2番目に古い明神(みょうじん)系八幡の鳥居です。また、手水石(ちょうずいし)が天和2(1682)年、燈籠(とうろう)が宝永(ほうえい)5(1708)年、宝歴(ほうれき)13(1763)年、文化4(1807) 年、狛犬(こまいぬ)が天保(てんぽう)3(1832) 年といった歴史の重みが伝わります。なお、八幡神社の南側には行者(ぎょうじゃ)堂があり、上ヶ原行者講(こう)として年1回、大護摩供(ごまきょう)を催し(例年3月)、天下泰平、五穀豊穣(ごこくほうじょう)、家内安全祈願がなされます。庚申塚(こうしんづか)(別名がいらの神)も祭られています。
明治17(1884)年、貿易商として活躍していた芝川又右衛門(またえもん)がこの地を中心に別荘地を拓くかたわらブドウ、桃、橙(だいだい)等の果樹栽培とともに梅、桜、楓(かえで)、楠等の植栽を行ったものが、今日の甲東(公民館)梅林9の始まりといわれています。昭和24(1949)年、百又(ひゃくまた)株式会社から西宮市が梅林付きで買収し、甲陵(こうりょう)中学校の建設に伴い当時運動場敷地にあった梅の木を移したものが現代の姿になっています。昭和37(1962)年に甲東公民館が開館するまで甲陵中学校歴代生徒、PTA、地域の有志の手によって潅(かん)水、除草などの手入れがなされていたこともありました。
梅林には樹齢80年〜130年のものが多く種類も全国各地から集められ、39品種(約200本)に及んでいます。花の時期も早咲きは1月下旬から、遅咲きは3月と、春の訪れとともにすばらしい花の宴(えん)を楽しませてくれます。品種は、白加賀(しろかが)、白玉梅(はくぎょくばい)、豊後(ぶんご)、南高(なんこう)などがよく知られていますが、他に白難波(しろなんば)、白鳳(はくほう)、見驚(けんきょう)、黒梅(こくばい)、桃千鳥(ももちどり)、摩耶紅梅(まやこうばい)、輪違(りんちが)い(思いのまま)などがあります。花の色は、白や淡紅(うすべに)、濃紅色(こいべにいろ)などがあり、さらに、一重(ひとえ)咲き、八重(やえ)咲きなど多彩です。特に白鳳は非常に珍しい品種です。甲東梅林は昭和58(1983)年1月に「西宮観光30選」のひとつになっています。毎年6月には,地域関係団体の協力を得て施設の子供たちや、一般公募の子どもたちや、お年寄による梅の実狩(がり)が年中行事になっています。
甲東地区は教育熱心な土地柄としても知られています。下大市には文政(ぶんせい)年間(1818〜30)から寺子屋がありましたが、明治5(1872)年まで現市域に残っていた寺子屋の中では2番目の古さです。明治政府によって近代的な学校制度「学制」が明治5(1872)年に発布されましたが、その翌年の1月には門戸(もんど)小学校(現甲東小学校)が設立されました。南部地区では最も早い設立でした。その児童数は現市域内では2番目に多く、就学率でも全国平均はもとより、西宮周辺地域では、他校と差をつけて1番目に高かったのでした。明治時代には、下大市(しもおおいち)から高木種蔵や久保田定松(「大市の茄子」の項参照)、神呪(かんのう)から小島嘉平次(かへいじ)(正条植(せいじょううえ)等の普及)など全国的にも有数の篤(とく)農家を輩出しております。
昭和初期には関西(かんせい)学院、神戸女学院、神戸女子神学校(現聖和(せいわ)大学)が移転してきました。戦後には報徳商業学校(現報徳学園)、市立西宮商業学校(市立山手高等学校を経て現県立西宮高等学校)が上ヶ原に移転され、仁川学院が設立されました。大学、高等学校、中学校、小学校、幼稚園が集まる上ヶ原地区は、昭和33(1958)年に「文教地区」に指定されます。これは全国で2番目のことでした。このことが昭和38(1963)年に西宮市が文教都市住宅都市宣言を行った背景のひとつとなったのは言うまでもありません。
山陽新幹線六甲隧(ずい)道、通称六甲トンネルは、昭和42(1967)年に着工され、昭和47(1972)年に運転開始されました。約5年間の難工事の末に完成したときは、日本一、世界第3位の長さ(16.25km)でした。現在ではJR西日本管内で2位(新関門トンネルが1位)です。
六甲山系の地質が水を多く含んだ断層破砕(はさい)帯であり、人家密集地帯のため、難工事は予測されていました。本坑(ほんこう)を掘る前段階として立坑、横坑、斜坑を掘り進めている時から、湧(わ)き水と土砂の混ざった異常出水に工事をはばまれました。最大湧水(ゆうすい)量は毎分7〜8トンもありました。毎分3トンの異常出水で30m 掘り下げていた斜坑が埋没する大きな事故などで、多数の犠牲者が出ました。山陽新幹線公園10にある慰霊塔は工事中の事故で亡くなられた方の遺族の気持ちをくみ、当時の国鉄が建てたものです。
山陽新幹線六甲隧道地下水調査委員会を設置し、酒造用の地下水に影響がないか調査研究をすすめました。影響は見られなかったとの答申書を出して、調査は終了しました。
悩まされた湧き水については、国鉄も処理に困っていました。そこで、南部の開発で水の需要が増えてきた西宮市と話し合い、合意の上、無料でその湧き水を有効使用することになりました。西宮市が受水槽に導水パイプを埋設して湧き水を流し、そこから鯨池(くじらいけ)浄水場(上大市5丁目、報徳学園の南側)へ送りました。湧き水には基準値よりも多いフッ素を含んでいましたが、ここで、淀川の水、武庫川の水、地下水をブレンドしたことによって、フッ素基準値(1立方m あたり0.8mg 以下)をクリアすることができました。この水は、北は田近野、仁川町あたりから阪急神戸線までの上水道として使用されています。
門戸の厄神さん11は関西随一の厄(やく)除け祈願の寺で、弘法大師建立の高野山真言宗の別格本山で、松泰山東光寺(しょうたいざんとうこうじ)という名称です。ご本尊は薬師如来(やくしにょらい)ですが、弘法大師が嵯峨(さが)天皇41歳の厄除け祈願の際に彫り上げた愛染明王(あいぜんみょうおう)と不動明王が合体した両頭(りょうず)愛染明王のほうが有名になりました。お祀(まつ)りしてある厄神堂が中楼門(ちゅうろうもん)に続いて中央に位置していることもあり、ご本尊と錯覚してしまいます。この両頭愛染明王は日本で3体刻まれましたが、1体は紀州高野山の麓(ふもと)「天野明神(みょうじん)」へ国家安泰のため、次の1体は山城男山(やましろおとこやま)の「石清水(いわしみず)八幡宮」へ皇家安泰(あんたい)のため、残る1体が庶民守護のため、摂津門戸の東光寺に祀られました。しかし、現存するのは当山のみとなっています。
お正月の初詣(はつもうで)に続く1月18〜19日の「厄神大祭(たいさい)」から2月3日節分の「星祭(ほしまつり)」まで、厄除け開運に「厄神さん」を訪れる人の波は、十日戎で賑わう西宮神社と共に西宮のみならず関西を活気づけてくれるものです。
明治5(1872)年に「学制」が発布され、明治6〜7年にかけて西宮市域内に11の小学校の基となった学校が始まりましたが、その1つの現甲東小学校の前身が当寺内で開校されています。
地域との関わりも大切にされ、夏のラジオ体操の会場、般若心経(はんにゃしんぎょう)を唱える会、小学生対象の1日小僧入門、春から秋にかけての「であい市」「西宮市民歩こう走ろう会」の拠点など現在に続く庶民の癒(いや)しの場所となっています。
くらがり街道ともよばれている旧有馬道と甲山観音参詣道とが交わるところに祀(まつ)られているのが腹切(はらきり)地蔵12です。いつから祀られたのか定かではありませんが、人々の往来で賑わった場所でありますので、往来の人々の道中、安全や村人たちの家内安全・無病息災を祈念して祀られていたと思われます。いつのころどんな理由で現在のように腹部が割れたのかも定かではありませんが、いつとはなく「腹切(はらきり)地蔵」と呼ばれるようになり、腹に関する一切の病に限らず、手足の痛みなどもこの地蔵に参って祈願すれば治るという信仰を受けています。
腹切地蔵のある道の奥には上ヶ原から門戸に流れる用水を利用した水車がありました。水車がなくなり、その水路が道の反対側につけ変わった時に、腹切地蔵は現在の位置に移設されました。今では、隣接する保育施設の子どもたちを見守っているようです。
8月23・24日の地蔵盆には年一回の開帳が行われ、腹掛けも新調されて盛大にお祭りが行われます。
下大市(しもおおいち)西町にたっている2つの道標13の前が旧西国(さいごく)街道です。昔、このあたりには大きな市(いち)がたち、物と人との行き来が盛んでした。
「すぐか婦(ぶ)と山観音(かんのん)是より五丁」「日本三体厄神明神(やくじんみょうじん)王道是よりすぐ西へ五丁」と書かれた2つの道標は、脇道が西国街道に交わるところに立ち、尼崎や大坂(阪)など、遠くから門戸厄神や甲山観音へ参詣する人々の道案内として大いに役立っていました。
この2つの道標が、この位置に並んで建てられていたかどうかは疑問が残るそうです。甲山観音もここから15丁の位置にあり、現在の位置ではなく上ヶ原浄水場の裏あたりの仏性ヶ原(ぶっしょうがはら)にあったと言われています。その頃にこの道標は立てられたと考えられます。
西国街道は、弥生時代に大陸文化を九州から畿内に伝えるために作られた道です。その後、律令制度の官名として山陽道と称されました。京街道、ひめ街道、山崎道とも呼ばれ、江戸時代になって京都から西国(九州)へ向かう道として西国街道と呼ばれるようになりました。
京都から西宮までの宿場と道筋を見てみると、西宮、伊丹、池田、茨木、高槻、長岡京市など、現在の市の発展には、この西国街道が大いに寄与したことがわかります。西国街道の道筋は変化していますが、昔も今も人々のくらしとの深いつながりがあります。
西国街道が武庫川につきあたる所に、近世文書には「山崎通り武庫川渡り所」と記され、通称「髭(ひげ)の渡し」14と呼ばれていた渡しがありました。上(かみ)・下大市(しもおおいち)村、段上(だんじょう)村(東側は昆陽(こや)村、常松(つねまつ)村)は、幕府からこの渡しの管理を義務付けられていました。西から東へと渡す義務と西宮宿への人馬の提供義務が課せられており、村々にとっては相当の負担となっていました(川越人足として農業の男手をとられる)。年10回以上の大名行列がありましたが、渡し賃も武士、僧は無料で、心づけは役人の手に渡されました。明治42(1909)年に甲武橋(こうぶばし)ができるまで、この義務は続きました。
街道はもともと「海道(かいどう)」と書いてあったそうです。海に沿った東への道が「東海道」と表されたと同じように、西へ向かう道が「西国海道」と表されました。後に、内陸部にある道を「海道」と書くのはおかしいとされ、現在の「街道」という表記になったと言われています。
下大市(しもおおいち)の茄子(なす)は「オイチのナス」と呼ばれるほど関西ではとても有名でした。明治の半ば、干ばつや虫の害にあって没落していく農家が多くなったころ、篤(とく)農家であった高木種蔵(たねぞう)、久保田清右衛門(せいえもん)(定松)の2氏は、「しっかりした収入のある副業さえあれば……」と茄子苗(なすなえ)養成栽培を考え、河内・和泉などの地方を巡視調査し、ついに養成法に成功しました。明治16(1883)年のことです。その方法とは、寒い風当たりを避けるために田んぼの周囲をわらで囲い、床には障子紙に油をひいたものを貼り、ふたをして育てるという温床式でした。この方法を、村中の農家に広めると共に、販路の拡大に努めたため、大市茄子の名はあがり、大正・昭和を通じて副業として、一番の現金収入となりました。大正11(1922)年、村人は、高木・久保田両氏に対する恩義とその功績をたたえるため、下大市村の入口、西国街道沿いに頌(しょう)徳碑15を建てました。その後、各地でも茄子苗の育成が始められ、昭和10(1935)年頃より、トマトの栽培が盛んになり、トマトの病気が茄子にも伝染したこともあって、茄子苗の栽培は衰え、やがて消滅してしまいました。
弘法大師空海は弘仁7(816)年、高野山を開くにあたって、4社明神をまつって1山の鎮守とし、神仏の協調をはかりました。これに基いて鎌倉時代から一連の高野山系垂迹画(すいじゃくが)が描かれるようになりました。下大市(しもおおいち)の永福寺16に所蔵されている画像もその1つです。この絵は、市指定重要文化財で、画面中央に高野四社明神、すなわち丹生都比売神(ニブツヒメノカミ)「唐装女神(トウソウジョシン)」、高野御子神(タカノミコシン)「黒袍束帯正笏(クロホソクタイショウシャク)」、大食都比売神(オウゲツヒメノカミ)「唐装女神(トウソウジョシン)」、市き嶋比売神(イチキシマヒメノカミ)「琵琶弾奏神(ビワダンソウシン)」の4神が描かれています。このうち後の3神はいずれも丹生都比売神の御子神です。各明神の背後に小屏風を配し、両脇に白と黒の狛犬(こまいぬ)を対置しているのも、この種の明神図に一般的な図像です。描写はやや様式化しているものの細蜜流麗(さいみつりゅうれい)です。製作年代は室町時代と推定されます。ちなみに、宝州山永福寺は、平安時代弘仁2(811)年に弘法大師空海の開創された西宮市最古の名刹(めいさつ)で封建当時の大日如来(だいにちにょらい)座像も安置されています。
田の水に困った人々は、天井(てんじょう)川である仁川の川底に木製樋(ひ)を伏せて、武庫川の水を引くことにしました。この樋の長さが百間(約180m)あることから百間樋(ひゃっけんび)17とよばれました。伏せられたのは永禄(えいろく)年間(1558〜1596)とも、天正(てんしょう)2(1574)年ともいわれています。
はじめは大市庄(おいちのしょう)五ヶ村(段上(だんじょう)・上大市(かみおおいち)・下(しも)大市・門戸(もんど)・高木(たかき))の灌漑(かんがい)用水でしたが、後に旧瓦林(かわらばやし)村(上(かみ)瓦林・御代(みよ)・下(しも)瓦林)や今津・津門(つと)・芝・広田・中村・旧西宮の九か村を井子(ゆご)として井組(ゆぐみ)に加えました。
このときの条件は、「いかなる日照り続きにも、井親(ゆおや)五か村は存分に水をとり井子村へは余り水しかやらない」であり、井子はお礼に井料として井親村へ毎年相当額の米と酒代を届ける約束もしました。当時、水がどんなに必要とされていたかが分かりますが、井親にとっても木製樋の維持管理の苦労は大変なものだったと思われます。このしきたりは、昭和28(1953)年になくなりましたが、現在も管理運営は百間樋井組(五か村持ち回り)で続けられています。
水は、武庫川の取水口から県道の下を横切って仁川の下流まで導かれ(500間)、そこから仁川の川底の暗渠(あんきょ)(100間)を通って百間樋公園の南に出てきます。板樋から現在のコンクリート暗渠になったのは、大正9(1920)年のことです。そのときには、盛大な通水式があり、せき止めてあった水が花火の合図と同時に打ち抜かれ、この出口18から吐き出されたそうです。
仁川は六甲山に源を発し、社家郷山(しゃけごうやま)から甲山の北側を通って、東進して武庫川と合流している全長9.9km の川です。上流部は細い川ですが、社家郷山の湯の口からは現在も農業用水が取水されています。中流部はV 字型の険しい谷で「六甲の黒部(くろべ)」とも呼ばれています。滝が多数あり、河床にはごろごろとした岩があります。下流部は緩やかな傾斜となり川幅は約30m となります。
水量が少ない上、河床は砂、砂礫(されき)、玉石が多いため、ふだんは阪急今津線あたりで水流が消失してしまいます。しかしながら大雨の際には、六甲山が花崗(かこう)岩質で保水性に乏しいこと、仁川の流路が短いこと、とくに阪急今津線から武庫川合流点までが天井(てんじょう)川の形状が著しいことなどから、昭和初期まで何度も堤防が決壊していました。
洪水によって運ばれた大量の土砂が長年堆積(たいせき)すると自然の堤防となります。この堤防と元の流路との間にできた細長い砂地に畑が作られるようになりました。大正13(1924)年、仁川の堤防が改修され、この細長い畑が「仁川住宅地」として発展しました。それが現在の仁川町1〜3丁目です。荒地のままで残っていた現在の仁川町5丁目は最後まで田畑になることはなく昭和10年代になって宅地として開発されました。
仁川町5丁目は宝塚市と隣接している部分が高くなっています。坂を降りて仁川蓬莱橋(ほうらいばし)を渡り、関西(かんせい)学院に行くと道は再び上り坂となっています。このふたつの高い部分が、むかし仁川が暴れ川だったころの河岸であると言われています。現在、仁川町5丁目の北西部に数本の松があり、関西学院側にも松並木が見えますが、これらはここが河岸だったころの名残りであると考えられます。
西宮市は全国的にも水路の多い街と言われていますが、甲東地区には、別項で触れている歴史的な上ヶ原用水、山之井(やまのゆ)、百間樋(ひゃくけんび)用水およびそれらから枝分かれした水路が縦横に流れています。源流の水がどこを通って流れ、どのように分岐しながら田畑を潤し、下流の町に流れていっているのかをたどりながら歩いてみると、そこに農民の知恵と水をめぐる歴史とドラマが凝縮されていることをしみじみと感じます。
これらの水路も、維持管理の努力を怠(おこた)れば、ゴミがたまって使い物にならなくなったり、大雨の時には洪水の原因になったりします。現在では、その存在があまり一般には知られていませんが、舞台裏ではこれらの水路を支える方々がいらっしゃいます。たとえば百間樋には専従の管理人の方がおられ、大雨の際には、武庫川の取水口を初め複数の樋門を閉じたり点検したりされています。渇水時には武庫川とは別の水路から取水したり、百間樋から浄水場に取水される時期にはきれいな水だけが流れるようにしたり、水路のゴミや底に溜(た)まった砂をさらえたりと、1年中、仕事が絶えることがありません。
水路は農作物を潤(うるお)すだけではありません。植物や魚、昆虫の生命を育んでいます。しかし、それだけでもありません。街中を通る水路は、空気の乾燥を防ぎ、暑さ寒さを軽減したり、砂埃(すなぼこり)が立つのを抑えたりします。
水路は防災にも役立ちます。阪神淡路大震災の時のように大規模な火災が発生した際、水路はさらなる延焼を防ぎます。広範囲にわたって焼け野原となった神戸市のある地域では、震災後、防火用水路を街中にわざわざ建設した地域もあります。また、西宮市のある地域では、震災の1年前に地元の消防団が水路から水を汲(く)み上げて消火訓練をしていました。それが奇(く)しくも平成7(1995)年1月17日に役立ちました。実は西宮市の震災による火災の発生件数は神戸市を上回っていましたが、焼失被害は西宮市の方がずっと少なかったのです。これは西宮市を流れる水路の存在と無縁ではありません。
田畑面積が減少していく現在、古くからの水路に蓋(ふた)をしたり、暗渠(あんきょ)(トンネル)にしたりすることが多くなっています。それは自然が育まれる環境をなくしてしまうばかりでなく、われわれの命を守る水脈に蓋をし、歴史に蓋をしてしまうことなのかもしれません。
関西(かんせい)学院や神戸女学院などの教育機関の移転とともに、甲東の発展に寄与したのは、阪急西宝線(現在の今津線)の開通でした。
阪急電車神戸線が大正9(1920)年に開通した後、西宝線(西宮北口〜宝塚駅)が大正10(1921)年に開通しました。大正11(1922)年に、甲東園(果樹園)の開発を進めていた芝川又右衛門が、駅舎建設費と駅前の土地1万坪を無償で提供し、甲東園駅が設置されることになりました。仁川駅は、仁川周辺を開発した日本住宅株式会社が1万坪の無償提供をし、駅が設置されました。両駅周辺では、阪神淡路大震災後、都市整備が進みました。
阪急仁川駅を出発して仁川百合野(ゆりの)町震災資料館、上ヶ原用水、関学内古墳、甲東公民館、山陽新幹線記念公園、門戸厄神(もんどやくじん)(東光(とうこう)寺)、腹切(はらきり)地蔵、西国(さいごく)街道道標、大市(おいち)の茄子(なす)顕彰碑(けんしょうひ)から旧西国街道沿い、百間樋(ひゃくけんび)川または富倉(とみくら)川沿いに歩き、百間樋公園が終着です。起伏は少ないものの、街中を歩くため、夏は暑いかもしれません。車の往来にも注意してください。コースの形が天狗(てんぐ)の面に似ており、仁川の水をめぐるドラマを彷彿(ほうふつ)とさせます。