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甲山

番号地図のポイント番号です

概要

甲山

甲山地区は、西宮のシンボルと言われる甲山1の傾斜地に広がる自然豊かな住宅地で、最も理想的な空間と言われています。

鷲林寺(じゅうりんじ)、北山緑化植物園、北山貯水池、神呪寺(かんのうじ)と続き、甲山森林公園から仁川に至るグリーンベルトを形成しています。

また、昭和初期から開発された住宅地は、苦楽園、甲陽園、上ヶ原、甲東園と西から東へ広がっています。このように、豊かな自然と人間の生活が調和共存しているすばらしい環境を次世代に受け継がなければならないと思います。

地形の成り立ち

約300万年前、甲山一帯はゆっくりと沈みはじめ、九州から瀬戸内海、大阪平野を経て伊勢湾のあたりまでがひと続きの巨大な湖となりました。甲山は、この間、水面下にすっかり沈んでしまったり、また島のように姿を見せたりしていたと考えられています。

こうした時代は200万年近く続いたと見られます。その間に周囲の山々から多くの土砂や泥が流れ込み堆積(たいせき)して「大阪層群」と呼ばれる地層ができました。大社中学校のある神原(かんばら)付近から甲陽園東山町にかけては、六甲東南麓の大阪層群がよく観察できるところです。

約50〜60万年前に、日本列島は各地で激しい地殻変動を受け、近畿地方にも周囲から強い圧縮の力が加わりました。周囲から挟みこまれて押しだされるように盛り上がったのが六甲山であり、その南東に位置する甲山も引きずられるように高さを増していきました。この時、逆に沈み込んでいったのが大阪湾です。

強い力が加わって、地層が押し上げられていくときに、あちらこちらにできたズレが断層です。

断層と災害

断層の破砕(はさい)帯は、古来、土地の不安定さゆえに、居住地として利用されることはありませんでした。しかし破砕帯周辺は土地の値段が安く、戦後その上に多くの学校が建てられました。甲陽断層の上には、甲陽園小、大社中、神原(かんばら)小、北夙川小、などが並んでおり、芦屋断層に沿っては、西宮甲山高、苦楽園小、苦楽園中、西宮北高、と、多くの学校が立ち並んでいます。

こうしたところに建設する場合には、十分な耐震性を備える必要があります。平成7(1995)年1月の大震災の時にわかったように、土地の危険性を考えずに建てられた学校には、大きな被害が出ました。逆に、甲山高校のように、地震対策を万全にして設計された学校の被害は最小限のものですみました。

周期的に大地震

地震に関して歴史を振り返ると日本書紀に飛鳥時代の684年(天武天皇13年)に大地震が起こった記録があります(白鳳地震)。

近畿地方では、以後マグニチュード8クラスの地震が仁和3(887)年、永長元(1096)年、正平16/康安元(1361)年、明応7(1498)年、宝永4(1707)年、嘉永7/安政元(1854)年、昭和21(1946)年と起きています。

温泉(鉱泉)の湧出

断層破砕(はさい)帯につきものなのが温泉の湧出(ようしゅつ)です。火山活動が起こるとマグマが地上近くにある地下水を熱するため温泉が湧きます。

明治39(1906)年に大社村の人々だけが知っている明礬泉(みょうばんせん)がありました。

明治44(1911)年、大阪の豪商中村伊三郎氏が目をつけ、時の兵庫県知事服部氏と共にボーリングをして苦楽園温泉を掘り当てました。濃度の濃いラジウム泉です。またこの年、現在の苦楽園地域の宅地造成も始まりました。昭和13(1938)年の阪神大水害により苦楽園地帯一帯が非常に変形したため、埋もれたり鉱泉の流れが変わったりして一瞬にして姿を消してしまいました。

毘沙門(びしゃもん)鉱泉は、市内の料理人が道楽で掘ってみたところ、湧きだしたものですが、国立公園の範囲内であったため市が引き渡しを受けました。今は社家郷山(しゃけごうやま)のふもとにある「かぶとやま荘」で利用されており、場所は芦屋断層の破砕帯(はさいたい)にあたります。炭酸泉であり、この鉱泉のために周囲の岩石が赤く覆われて道路からも赤くなっているのが見られます。

越木岩(こしきいわ)鉱泉は、獅子ケ口鉱泉とも呼ばれており、夙川沿いの松風公園の川向かいに湧(わ)いています。甲陽断層の破砕帯です。炭酸泉で少し鉄分が含まれています。二日酔いや胃腸に効くことで有名でした。度重なる夙川の氾濫(はんらん)、特に昭和13(1938)年7月の阪神大水害によって埋まり、今では石垣の隙間からチョロチョロと湧き出ている状態で、その下にはクレソンやセリが自生しています。かつては1日に千人もの人が鉱泉を汲(く)みにきており、船酔いの薬としても売られていました。

甲山の地質

六甲の山々は、御影石(みかげいし)(花崗岩(かこうがん))でできていますが、甲山は輝石(きせき)安山岩よりなり、岩質が全く違っています。1200万年前に噴火したときは、甲山は、今よりもっと大きく裾(すそ)の広がりもある山であったと考えられています。ところが、1000万年ほど前に噴火がおさまると、急速に風化が進み、六甲の花崗岩を覆って広がっていた甲山安山岩は、どんどん削り取られ、ついには火口付近の火道(かどう)のあたりだけが、現在の甲山として残るのみとなりました。

甲山の北の斜面を歩いて登ってみると、山腹の260m付近まで基礎の花崗岩が見られ、また、南側の斜面では、源頼朝(みなもとのよりとも)の塚の辺りで、安山岩と花崗岩の接触面を見ることができます。

北山池の南側には大きな岩でできた自然の石垣が見られます。火成岩が冷えるときに入る割れ目(節理(せつり))に雨水などが染み込み、風化が進むとその割れ目の筋が際立ち、まるで誰かが積んだかのように見えるのです。

また、甲山の麓(ふもと)の目神山町(めがみやまちょう)を歩くと、あちこちに大きな石を使った住宅の庭があります。道端にも同じように大きな花崗岩がころがっており、各住宅はもとからそこにあった石を巧みに庭石として取り入れています。大きな花崗岩が節理面にそって風化が進んで割れ、まわりの部分がすっかりなくなってしまった岩です。

弥生時代・古墳時代の暮らし

甲山周辺の丘陵(きゅうりょう)地帯には、弥生時代の遺跡が見られます。甲山が石器製作の材料となる石材の産出地であったという説もあります。また、同じく山麓の丘陵地帯には、かなりの数の古墳群が分布しており、古墳時代後期には多数の人々と広い土地を支配する強力な首長が存在し、権力の分化も生じていたことがうかがえます。平地に作られていた古墳が、台地や丘陵地に作られるようになったのは、平地部での耕作も盛んで人口が増加していたことを示すものです。

神呪寺

甲山神呪寺

甲山の南にある神呪寺(かんのうじ)2は、除夜の鐘、初日の出、そして初詣と、大晦日から元旦にかけて、多くの人でにぎわいます。この寺の縁起は、僧永祐によって編集された『帝王編年記』によれば、淳和(じゅんな)天皇の皇后正子内親王が如意輪観音(にょいりんかんのん)を深く信仰して、夢の中で天女(てんにょ)にお告げを受けたことに始まるといいます。「摂津国(せっつのくに)武庫山(むこのやま)に孤岳があり、その形宝珠(ほうじゅ)の如くである。これは観音利生(りしょう)の地である。すべからく、寺を建立(こんりゅう)せよ。」というそのお告げに天皇も喜び、橘氏公、三原春上のふたりに命じて造らせました。

この寺の本尊は木造如意輪観音像であり、弘法大師が刻んだとされています。河内長野の歓心寺、奈良の室生寺(むろうじ)の如意輪観音とあわせて平安時代初期の名作三如意輪観音と言われています。重要文化財に指定されています。この秘仏は毎年5月18日に特別ご開扉(かいひ)され、一般参拝客で賑わいます。

鷲林寺

鷲林寺

鷲林寺(じゅうりんじ)3は、かつては神呪寺(かんのうじ)に次ぐ名刹(めいさつ)で、833年に弘法大師によって創建された寺とされています。伝説によると、平安時代の神呪寺創建の際、西の空がにわかにかき曇り、大鷲(わし)が現れ出て飛んできて、火炎を吹いてお堂を焼いて神呪寺建立の邪魔をしたとあります。

真言密教の呪術(加持祈祷(かじきとう))で、その大鷲を、棲家(すみか)である西の岩山の古桜の霊木(れいぼく)に封じ込めた上、弘法大師の刻んだ十一面観音を安置し、鷲を祀(まつ)って寺院を建立(こんりゅう)して、その名を鷲林寺としたということです。

鷲林寺の参道脇墓地の西南隅に七重塔(花崗(かこう)岩質)が建っています。これは市内最古の石造遺品であり、市の文化財に指定されています。

鎌倉・室町時代には76の宿坊ができる程の栄え振りで「西の高野山(こうやさん)」と呼ばれましたが、戦国時代に足利氏や織田信長の焼き討ちに遭(あ)い、焼け滅んだと伝えられています。鷲林寺に現存する十一面観音は、当時の里人(さとびと)が、寺から持ち出して竹藪(やぶ)に隠したため、難を逃れました。焼き討ちに遭った鷲林寺の僧侶は、有馬へ行って宿坊を経営するようになりました。そのため今でも有馬温泉には「中の坊」「奥の坊」といった宿坊のような名前の宿が存在しています。

鷲林寺の境内には七重の塔があり、武田信玄の墓と言い伝えられています。しかし、西宮では最古のその石塔(せきとう)の推定年代は鎌倉時代で、信玄とは時代が合いません。鷲林寺町には、信玄の生まれ故郷を姓とした「甲斐(かい)さん」と、信玄の敵である上杉謙信の重臣の姓を持つ「高田さん」が、呉越同舟(ごえつどうしゅう)で暮らしています。この石塔の言い伝えは、甲斐姓の人が何らかの都合により、関連づけたのではないかと考えられています。

鷲林寺の周辺

宅地造成をするために竹薮(やぶ)を取り払ったとき、壷(つぼ)に入った宋銭(そうせん)がたくさん埋まっているのが発見されました。いつ誰が埋めたものかわかりませんが、歴史的背景からすると大変興味深いものがあります。

観音(かんのん)谷の旭(あさひ)滝は行場(ぎょうば)になっていて、今も自ら滝に打たれて行(ぎょう)をしている人がいます。この滝から観音堂の手洗いの横まで水が引かれており、蛇口をひねればおいしい水がいただけるようになっています。

この辺りではお盆に送り火をしていました。地元の若い衆が松明(たいまつ)に火を点(つ)けて送り火をすると五月山(さつきやま)(池田市)の方からも送り返してくるのです。30年前くらいまで行われていましたが、今はなくなっています。

この地域には渋柿(しぶがき)の木が多いのですが、自生(じせい)しているわけではありません。これは灘五郷(なだごごう)の酒造りと関連があります。昔は木綿(もめん)の荒い布に柿の汁を塗って渋染(しぶぞめ)にしたものを使って酒を絞っていたのです。そこで鷲林寺(じゅうりんじ)地域の人々は渋柿の木を植え、青い渋柿を灘に卸すことで現金収入を得ることができました。今も渋柿の木が多くあるのはその当時の名残りです。

昔、丹波杜氏(とじ)の人々は、秋の取り入れが終わると丹波から有馬、船坂(ふなさか)峠を越えて鷲林寺へ、そして今津、西宮の酒蔵へ出稼ぎに行っていました。その道程は大人にとってもよほど心細いものだったのでしょう。丹波地方では子どもがむずがると「鷲林寺へ連れて行くぞ」とおどすほど、当時の鷲林寺一帯は寂しいところでした。

銀水橋から鷲林寺へ

県道大沢(おおぞ)西宮線を北へ行き、夙川上流の銀水橋(ぎんすいばし)4を越え、「柏堂(かやんどう)」バス停の東側が緑化植物園、西側に行くと県立北高校、甲陽学院高校、苦楽園中学校があり、黒川古文化研究所があります。中国朝鮮日本の古美術工芸品を中心に、中国戦国時代から唐代の古鏡(こきょう)が有名で、日本の文化財では古墳時代の勾玉(まがたま)、鏡、飛鳥白鳳時代から鎌倉時代に至る寺社の古瓦、和鏡(わきょう)など、国宝2件、重文16件、重要美術品62件という多さです。

次にバス停「鷲林寺(じゅうりんじ)南口」と「鷲林寺」の県道上に夫婦岩があります。古くからミステリーの住家といわれ、撤去作業の度に事故があり、いつの頃からか村人が地蔵さんを祀(まつ)るようになりました。それからというものの事故もなくなり、現在、上り線下り線の分岐岩になっています。

鷲林寺では明治初年頃、旧大社村だった頃、高地で寒冷であったので、今のゴルフ場のあたりに寒天小屋があったと言われています。しかし、より自然条件の恵まれた船坂(ふなさか)、盤滝(ばんたき)の方へ移されていきました。その後、水の良さを利用して酒造りがなされましたが、伊丹、今津、灘と盛んになるにつれ、酒袋の渋染(しぶぞ)めのため渋柿の出荷をするようになり、丹波杜氏(とじ)の通過点となりました。

この大社村には明治44(1911)年、大阪の豪商中村伊三郎氏がボーリングしてラジウム泉の温泉を掘り当て、苦楽園温泉として賑わい、宅地造成も盛んになりましたが、昭和13(1938)年の大水害で埋もれた鉱泉の流れも変わり、現在では国立公園内で、市の老人の家「甲山荘」として利用されています。湯元(ゆもと)町という名も鉱泉に因(ちな)むものと思われがちですが、「ゆ」は溝、用水路、泉、井堰(いせき)を指すことから、仁川上流の水を社家郷(しゃけごう)村に引く用水路としての「湯の口」から湯元と呼ばれるようになったとみられます。

宅地造成化される中、昭和23(1948)年、夫婦池辺りにあったトラピスチヌ修道院5(フランス、シトウ会西宮聖母修道院)が更に奥の鷲林寺の隣地へ移ってしまいました。

北山貯水池

北山貯水池

北山貯水池6は急速に開発が進む南部丘陵地域の水需要に備えるため、新たな水資源として、仁川の水を高度利用することを検討し、第4次拡張事業の一環として建設されました。この貯水池は仁川を主な水源として、北山の麓(ふもと)、水分地蔵堂前にダムを築いてできた人造湖で大小5つのアースダムを築造し昭和41(1966)年12月着工し、43(1968)年5月に完成しました。

貯水池の水を堰(せ)き止めているのが北山ダムで、第1から第5まで5つのダムの総称です。ダムの高さは最高約25m、5つの長さを合わせると800m 以上あります。この貯水池の有効貯水量は約116万立方メートルで、北山浄水場と越水(こしみず)浄水場へ送水しています。水深は19.5m あります。

北山貯水池は水鳥や野鳥も多く、甲山森林公園と北山緑化植物園を湖岸の周遊路で結び、周辺に競い咲く桜、強い日差しと噴水が織りなす虹の帯、四季の彩(いろど)りを湖面に落とす甲山、大阪湾の遠景など、豊かな自然環境に親しみながら、ハイキングや散策を楽しむ人々の憩いの場となっています。

甲陽園

大正時代の甲陽園7には、クラブ、遊園地、浴場、旅館などが設けられ、阪神在住の知名の士、有産階級の人々があいついで別荘、居宅をかまえました。甲陽キネマが建てた撮影所が東亜キネマの撮影所となるなど、著しい発展をみました。特に大正13(1924)年に阪急電鉄の甲陽線が開通し、駅が開設されたのを契機に、都市との連絡が一層便利となり、甲陽園は全盛期を迎えるに至りました。

甲山湿原

甲山の北東斜面のふもと、甲山青年の家(甲山自然の家に改名予定)の裏には、甲山湿原8が広がっています。この地層は、大阪湾の海の底にあった大阪層群が50〜60万年前の六甲変動の時に盛り上がったもので、水はけが悪く雨が流れ込んで湿原が形成されました。この湿原は、氷河時代の生き残りと考えられるノハナショウブ、ウメバチソウや、ヌマガヤ、ミカヅキグサといった寒地性の植物と、熱帯地方でないと育たないはずのケシンジュガヤ、イガクサといった植物が混在しているのが特徴です。また、食虫植物も湿原の至るところに群生しています。現在は、特別保護地区に指定されており、研究者以外は入れません。

神呪寺の竹林

青年の家から甲山の裾(すそ)に沿って南へと進むと、神呪寺(かんのうじ)の前に出ます。その山門を行き過ぎると、右手に竹林が広がっており、美しくもはかないキヌガサタケが自生(じせい)しています。7月初めの朝6時頃に出かけてみると、2時間のうちに、かさからレース状の美しいマントを広げ、やがてしぼんでいく姿が観察できます。珍しい神秘的なキノコですが、中華料理の食材としても利用されています。

社家郷山のアカマツ林とコナラ

甲山高校から仁川を挟んで向かい側にあるのが、社家郷山(しゃけごうやま)で、甲山荘や野外活動センターが建てられています。この山は、ほんの30年前までは純然たるアカマツ林で、松茸もよく採れていました。ところが、道路が通じて車の排気ガスで環境が悪化したため、アカマツは次々と枯れていきました。アカマツが枯れた後の山の傷跡を埋めるように繁殖したのがコナラです。コナラの葉が地面に堆積(たいせき)することで、山の保水力も高まり、生き物も育つことができます。コナラの存在は、甲山周辺の生き物にとっても人間にとっても、貴重なものとなっています。

モリアオガエル

甲山周辺には、モリアオガエルも生息(せいそく)しています。モリアオガエルは、文字通り森の中で生活し、6月頃に自分の育った池に戻って産卵します。メスのカエルが水場に張り出した木の枝にあがると、5〜6匹ものオスガエルがその後を追い、メスが卵を生み始めると、次々に精子をかけて、メレンゲのようにフワフワの泡の固まりを作ります。5〜6日経つと、そのメレンゲが動き始め、500匹もの小さなオタマジャクシが、木の枝から下の水場に落ちていきます。水の中で育ったカエルは森へと入り、3年経って同じ池に戻ってきます。ところが、最初の500匹のうち無事に戻ってこれるのは、たった1〜2匹です。

広河原のホタル

甲山の東側に広がる仁川の広河原(ひろがわら)9は、平成7(1995)年の震災前まで、多くの人の憩いの場として利用されましたので、定期的に草も刈られていました。ところが、震災後は人が来なくなり、草は茂り放題のまま放置されるようになりました。しかし、このことで水もきれいになり、再び多くの蛍が見られるようになりました。6月下旬から7月初めに広河原に行ってみると、ゲンジボタルやヘイケボタルが舞い飛んでいるのが見えます。

ホタルは水の中で大きくなり、その後、さなぎになるために、いったん土の中に潜り込まなくてはなりません。そのため、池や川の周りがコンクリートで固められていると、ホタルはさなぎになれないまま死んでしまいます。コンクリートを土の土手に戻すか、土のうを積めば、ホタルは育つことができます。広河原横の改修された「甲山なかよし池」には、こうした工夫がなされています。

五ケ山2号古墳

五ケ山2号古墳

五ケ山(ごかやま)2号古墳10(仁川町6丁目15〜16番地)は、六甲東麓の五ヶ山丘陵に立地する6〜7世紀に築造された五ヶ山古墳群中の1基で、標高130m に存在する丘陵尾根の背梁を削って石室をつくり、封土(ほうど)を盛った径15m、高さ4m の円墳です。長い間、天井石を欠き、横穴式石室が露呈していました。内部主体としては、両袖型式の横穴式石室を有し、石室は袖(そで)により玄室(げんしつ)部と羨道(せんどう)部の区分が明確で、玄室4.5m、羨道5.5m、奥壁の幅1.7m、玄門の幅約1.7m、右袖の幅0.4m、左袖の幅0.3m、羨門のはば1.8m となっていました。

出土遺物は金環(きんかん)4,銀空玉1,鉄鏃(ぞく)(やじり)6、馬具革帯金具(かわおびかなぐ)、同飾り金具片、鉄釘及び鉄製品残欠25、須恵器(すえき)平瓶2、台付杯6、石棺(せきかん)棺材が検出されています。また玄室中央部奥よりの床面に、被葬者を送る葬礼儀礼の一種であるベニガラ朱が塗布されていました。

石棺棺材は神戸層群に含まれる砂岩です。組み合わせ式石棺は破片しか残存しておりませんが、古墳の築造された6世紀の石棺としては家型石棺が一般的であるので、本石棺もこの形式と考えられます。市内において、石棺を使用した例は現在のところ他に類を見ません。

本墳築造地一帯の下層には弥生式住居跡が検出されており、重層遺跡として貴重な意味をもつことが指摘されています。確認された竪穴(たてあな)住居は11棟を数え、小グループごとにまとまって営まれたとみられます。出土遺物も煮炊きに使用した土器、木の実を砕く石製の道具、鉄器を研(と)ぐ砥石(といし)、鏃(やじり)などあり、弥生中期後半から後期まで継続した当時の生活様式を具体的に知ることができます。このように、貴重な高地性集合住居跡も、宅地開発に追われ、崩壊を防ぐために土盛りがされて、現在は、住宅地の角に置かれています。

上ヶ原に残存する古墳→ 甲東地区参照

甲山散策コース

バスで鷲林寺(じゅうりんじ)まで行き、ここをスタート地点として甲山の北側を通って阪急仁川駅に出るコースをとると、ほぼ下り坂となり、比較的歩きやすいでしょう。甲山の北側の道は、草木が鬱蒼(うっそう)と生い茂っており、しばし人里離れたハイキング気分が味わえます。

語り部マップ
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