番号 は地図のポイント番号です
夙川(しゅくがわ)は、西宮の西を流れる長さ約7〜8kmの川です。川の名は、もともとは、宿場の川という意味合いであったようです。源流は剣谷川(剣谷山の頂上から下る川)です。
剣谷(つるぎだに)という地名は、風化が激しく、何かある度に揺れ動く、不安定な地盤を意味する「ゆるぎ谷」が「つるぎ(剣)谷」と呼ばれるようになったのでは、と思われます。また、剣谷山の別称「ゴロゴロ岳」の名は標高565.56mであることに由来します。
柏堂(かやんどう)からの流れや水分谷からの流れがあり、夙川全体は、主に5本の支流が合流して瀬戸内海に注ぐ形となっています。しかし、二級河川としては、北山ダム下の銀水橋を起点として、川尻まで4,125mとされています。北夙川橋から下流3.2kmは夙川公園です。昭和の早い時期に、約2,300本の桜を植えるなどして、公園として整備されました。春には、清流に松並木の緑と立ち並ぶ桜の花が映えて、素晴らしい景観が楽しめます。
川尻は、神功(じんぐう)皇后が上陸されたとする伝説の砂浜です。かつては白砂青松(はくしゃせいしょう)で、目の前に西宮沖が広がっていました。長い歴史の中では、色々なことがありました。時代がくだって、幕末、開国や海防の問題で全国が揺れているとき、将軍家茂(いえもち)が外輪船で、この沖にやってきてボートで上陸しました。伊能忠敬(いのうただたか)が来て測量しました。蛤御門(はまぐりごもん)の変に敗れた長州藩士たちが、この浜から海上に逃れ、西に去りました。未明の東の空が異様に明るく見えたのは、鳥羽伏見(とばふしみ)の戦いに敗れた幕府軍の拠点、大坂城が炎上していたのでした。
夙川は、非常に傾斜のきつい急流河川です。世界中の河川との比較で見ますと、「夙川は滝のような川」と言えます。国内の河川では、利根川、木曽川よりも急な川です。
夙川河川敷公園10は、渓流に沿う夙川上流緑道によって、上流の北山ダム公園と結ばれています。また、夙川河川敷公園と川尻の御前浜(おまえはま)とは、夙川オアシス道で結ばれていますので、夙川は、一本の長いグリーンベルト地帯となって、西宮の町に自然豊かな光彩を与えています。上流部は砂防河川、下流部は天井川で、感潮(かんちょう)河川です。
夙川一帯は、関西屈指の落ち着いた住宅地域としても知られています。この川沿いに住み、この地を愛した多くの人々の中に、薄田泣菫(うすだきゅうきん)、森田たま、須田克太、その他数多くの芸術家や文化人の名が聞かれます。また、辰馬(たつうま)考古資料館、西宮市大谷記念美術館、西宮市中央図書館、郷土資料館、市民ギャラリー、菊池貝類記念館、などがあります。
夙川は、もともと「宿川」であったといわれています。阪急夙川駅から香櫨園(こうろえん)の辺りは昔「古宿」と呼ばれていました。これは、西国街道と中国道が出会う地点にあたるため宿場町があつたからです。
地名には昔から字(あざ)があてられ、時代が移り変わるにつれて、読み方も変化することがよくありました。地名も生き物なのです。「しゅく」の字は、「宿」から「守具(しゅぐ)」に、さらに「守」の字は「もり」と読んで「森」の字をあて、「森具(もりぐ)」に変化していきました。
夙川中・下流域の東岸部は昭和8(1933)年、旧大社村が西宮市と合併するまで、周辺村落と旧大社村を構成していました。大字(おおあざ)森具は江戸時代は森具村として、西宮町に属していました。いまでも、片鉾池(かたほこいけ)の南にあるJRの踏切を、「森具の踏切」と呼んでいます。
さて、古宿の辺りの宿場町についてですが、不思議と江戸中期以降の記録が残っていません。突然、宿場の人たちが消えてしまったと言われています。移動する集団だったのか、それとも、移動しながら全国を回る芸能集団だったのか、謎に包まれています。この時代は、まだまだ人々が定住しているとは限りませんでした。今よりもっと人の動きも流動的だったようです。いずれにしましても、川に「夙川」という名前がついたぐらいですから、かなり大きな集落だったようです。
街道筋の宿場町としては、えべっさんの南側、国道43号線との間に昭和のはじめ頃まで残っていました。これは、えべっさんに巡礼する人や薬売り商人などのための宿場町で、下駄直し、傘の張替えなど旅を続けるために必要な店も並んでいました。ところが後に近代的な交通の便がよくなって、これらの街並みはなくなりました。
夙川周辺は、1200年前には入江になっていました。いまでも弥生時代の遺物や須恵器(すえき)が見つかっています。平安時代にも、まだ海が残っていて、和歌に「広田より戸田へ渡る船もがな浜のみたけへことずてもせむ」と詠(よ)まれています。広田からえべっさんの東の戸田町へ船で渡ったと言いますから驚きです。
浜脇小学校の西南に広い畑地がありましたが、ここは入海を西から囲む砂州(さす)の外海(そとうみ)でした。かつて夙川は、今と異なり、大井手(おおいで)町北側から東南に流れていました。平安時代末期ぐらいまでには、東六甲の山肌から運んできた土砂で、入海をなかば埋めてしまい、砂州の上のえびす神社を中心に発展してきた西宮の町に、たびたび水害を与えました。それで「暴れ川」と呼ばれました。
鎌倉時代に、夙川は西宮神社の西につけかえられ、さらに南へ真っ直ぐ下らせて、現在の夙川となりました。御手洗川や夙川は、六甲の東山麓から川尻へ、絶えず土砂を運び、堆積していきましたので、人々は新しい耕作地の開墾に努力しました。また、しばしば人手を加えて地形を変えました。
昔に比べて、格段に技術が発達した今、私たち人間が環境に与える変化のスピードも速くなりました。自然環境に人工的な手を加える際には、後々に与える影響の大きさをよく考えてから、実行しなければならないことを示唆しています。
荒戎町(あらえびすちょう)の由来は、西宮神社の西に移された川が、たびたび氾濫(はんらん)して、「荒戎川」と呼ばれたことからとも、えびす様が荒々しい漁民の神様ということで、荒をつけたとも言われています。
荒戎川の西側は川尻、東側は浜田と呼ばれました。こうして出来た広く平らな砂地に、大きな石が転がっていました。これは、大坂城築城のため、六甲山から切り出された花崗(かこう)岩です。海水の浮力を利用して、綱で船から吊り下げて、海中を運んでいるうちに、綱が切れたり、船が転覆したりして、海底に沈んだものです。夙川が運んできた土砂などで陸地化が進むにつれ、頭を海中から出し、ついには砂浜や田畑に立つようになりました。この巨岩は「建て石」と呼ばれ、現在の建石(たていし)町の由来となりました。
広田神社創建の由来は、広田地区の項で述べられていますが、この由来によりますと、神功(じんぐう)皇后が、朝鮮半島遠征の帰途、務古の水門(むこのみなと)に上陸されたとされています。皇后が上陸されたと伝えられるところは、夙川の川尻で、今も「御前(おまえ)の浜」11と呼ばれています。この浜は、東は砲台あたりから、西は堀切(ほりきり)川樋門(ひもん)まで東西約1キロ、広さ5.7ヘクタールの砂浜です。芦屋シーサイドタウンの東端部と西宮埋立地に挟まれ、波も穏やかです。冬鳥のヒドリガモ、ホシハジロなどをはじめ、カモ・カモメ類の絶好の休息地となっています。
干潟(ひがた)には春と秋に、シギやチドリが渡ってきます。ユリカモメは、カムチャッカから渡ってくるものもいます。この浜辺には、年間、約35種類もの鳥類の姿が見られます。
西宮の海辺は、昭和の初め頃までは、いわゆる白砂青松(はくしゃせいしょう)の砂浜が続き、海や空は青く澄んでいました。渚(なぎさ)では、漁師さんが威勢良く地引網を引きました。春から夏にかけては、日光浴や潮干狩で賑わったものでした。
ところが、太平洋戦争の後、たびたび大型台風に襲われて、高潮災害をこうむりましたので、大防潮堤が築かれました。また、大阪湾沿岸の各地で大規模な埋め立てが行われたり、高度経済成長のもたらす様々な環境破壊がなされたりして、たいへん大きな影響を受けました。
1970年代のオイルショック以後、環境改善が少しずつ進んできました。一時まったく姿を消した海岸生物が、ふたたび蘇(よみがえ)りはじめています。
夙川堤(つつみ)の片鉾池(かたほこいけ)(現夙川公民館)の周辺に、香櫨園(こうろえん)遊園地が出来たのは、明治40(1907)年4月のことでした。今は夙川下流の阪神香櫨園駅や香櫨園小学校にその名を残す香櫨園は、もともとは、旧森具(もりぐ)村にあたり、狐や狸の棲む、約10万坪の山林・原野でした。ここに道をつけ、橋を架け、数万の観葉植物を植え、片鉾池にはウォーターシュートを設け、ホテルや茶寮を建てて、一大遊園地を現出させました。園内には、動物園、博物館、音楽堂も設けるなどして客の誘致を図りました。阪神電車も最寄駅として香櫨園駅を開設しましたので、日夜おおいに賑わいました。
今は、阪急夙川駅の西の、羽衣(はごろも)、相生(あいおい)、雲井(くもい)、霞(かすみ)、殿山(とのやま)、松園(まつぞの)の6町になっています。
大正2(1913)年11月、「苦楽園温泉」が開場しました。この時、大隈重信(おおくましげのぶ)が訪れて、「これは東洋一のラジウム温泉だ」とのお墨付きを出しました。これが噂となって、たいへんな人気を博しました。この温泉へ来るには、阪神電車香櫨園(こうろえん)駅から、馬車に乗るしかなかったのですが、大阪の船場や北浜の豪商たち、あるいは政財界人、文化人が、別荘や邸宅を建てました。町名は、三条実美(さねとみ)というお公卿(くげ)さんが持っていた瓢箪(ひょうたん)の名前「苦楽瓢」に由来するといわれます。
大正9(1920)年に阪急電鉄神戸線(梅田〜王子)が開通、大正12(1923)年には、甲陽園線が開通しました。
苦楽園の三笑橋(さんしょうばし)の近くに昭和初期、湯川秀樹博士が住んでおられた家が残っています。昭和9(1934)年室戸(むろと)台風が来た頃のことですが、不眠がちな博士は、夜にこの辺りを散歩されたそうです。そんな10月のある晩、目をさまされた博士は、枕元に備えてあったメモ用紙に走り書きをされましたが、それは、後にノーベル賞を受賞される「中間子理論」の構想のもとになったと言われます。
また、博士は、自宅近くの恵ケ池のほとりにある幽玄な桜の古木について、その地とともに「ここは隠れた日本一桜の名所(秘所)である」と称(たた)えられたとか。
公民館の建設に伴い、沼は埋め立てられて小さくなり、その桜の古木は切られてしまいました。
「大観楼(たいかんろう)」を少し下ったところに、谷崎潤一郎の旧宅がありました。谷崎が大正12(1923)年の関東大震災直後の混乱を避けて関西に移り住み、『細雪(ささめゆき)』を書いたことはよく知られていますが、一時期ここで過ごしました。
さらに南に下ると、朝日新聞の下村海南(かいなん)(宏)宅がありました。昭和天皇の大戦終結の詔勅(しょうちょく)を放送する、あの歴史的な、「玉音放送」の実現に重要な役割を果たされたことでも有名です。昭和初期、この家には、川田順、九条武子、岡本かの子らが集まって、和歌を詠(よ)んだこともよく知られています。
この家は後に、伊丹の帽子王といわれる堀抜氏に買い取られ、その後、大阪市交通局の保養所「苦楽園荘」となりました。
越木岩(こしきいわ)神社12の社殿の奥にある巨岩は、古くから信仰の対象とされてきました。この巨岩が甑(こしき)の形に似ているというところから、甑岩(こしきいわ)と呼ばれてきました。甑というのは、もともとは、大昔の人たちが、どんぐりなどを蒸すのに使った土器でしたが、後には、米を蒸すために用いるものをいいました。
この岩は、豊臣秀吉が大坂城を築城した際、切り出されようとしましたが、白煙をあげて鶏鳴(けいめい)し、石工(いしく)たちに手を出させなかったと伝えられます。
境内には「残り石」といわれるものがあります。大名たちは、秀吉のために岩を切り出そうとして、競って自分の紋所(もんどころ)を刻みつけました。しかし、結局はそのまま残されてしまった岩が「残り石」です。昔の自然破壊のひとつの例といえます。
天保(てんぽう)2(1831)年、「おかげ踊り絵馬」2面が奉納されました。当時大流行した、お伊勢さん参りを描くもので、貴重な民俗資料とされ、西宮市の重要有形文化財に指定されています。
境内の叢林(そうりん)には、ヒメユズリハ、ヤマモモ、アラカシなど、暖地性植物の群生が見られます。西宮市景観樹林保護地域に指定されています。
越木岩(こしきいわ)神社のすぐ近くの毘沙門町(びしゃもんちょう)に、メタセコイヤの巨木13が2本生えていて、西宮市の保護樹木に指定されています。案内板によりますと「メタセコイヤ:1945年、中国四川省で発見された。生ける化石とされる樹木として有名。原産地では高さ35m、直径2.5mを確認」とあります。
六甲山東南麓の夙川右岸、久出川(くでがわ)北方一帯の台地です。いつ頃から、越木岩(こしきいわ)と呼ばれるようになったかは、よく分かりません。
越木岩は、江戸時代には尼崎藩に属し、承応(じょうおう)2(1653)年、藩主の命令で開墾が始められて、越木岩新田村ができました。明暦(めいれき)2(1655)年には、石高(こくだか)98石余、27軒、146人の村になっていたそうです。
明治22(1889)年、鷲林寺(じゅうりんじ)新田、柏堂(かやんどう)新田、中村、広田村、越水(こしみず)村、森具(もりぐ)村、と越木岩新田村が合併して、大社村ができました。そして昭和8(1933)年、この大社村は西宮市と合併しました。
公園の近くの山の形が「ほうらく」(素焼きの土鍋)の形に似ているということで、豊楽町(ほうらくちょう)と名づけられたとのことです。近くの獅子ケ口町(ししがぐちちょう)と同様に、かつては狐(きつね)、狸(たぬき)、いのしし、がたくさんいたそうです。
西宮市内には、豊楽公園のような規模の公園がたくさんあります。日頃は市民の憩いの場であると同時に、緊急時の避難場所としての機能が期待されています。
銀水橋(ぎんすいばし)14は、二級河川としての夙川の起点です。すぐ傍(そば)に水分堰堤と水分樋門があります。人工の施設ですが、夙川の景観保全を考慮した外観になっています。樋門の水は、山地の田畑を潤し、北夙川橋付近で、ふたたび夙川に戻ります。
銀水橋西詰め(夙川右岸)の樹林は、清流の淵(ふち)に臨み、研究者たちから高く評価されている「手つかずの自然林」です。ここに大規模マンション建設計画が持ち上がりましたが、市民や研究者たちの一致した活動で、この計画は中止となり、貴重な自然環境は保護されました。
夙川上流緑道15は、夙川公園と北山公園を結ぶ美しい遊歩道です。市制45周年記念事業として施工されましたが、これによって、北山ダムから御前浜(おまえはま)まで、つまり、夙川のほぼ全域が公園化しました。この遊歩道を下っていくと、夙川さくら道となり、さらに下ると、夙川オアシス道となり、やがて御前浜の砂浜に出ます。
大井手町の界隈は、盛んに湧(わ)き水が出るところでした。近くに結善町(けつぜんちょう)、越水(こしみず)(小清水)町、清水(しみず)町、など水に縁の深い地名があります。人が住むにはあまり適しない土地柄であったせいか、夙川に沿って立ち並ぶ水車小屋が望見される、さびしい地域でした。水車は、夙川の水力を利用して盛大に、酒造米の精米を行っていました。
大井手(おおいで)町と相生(あいおい)町を結ぶ優雅な小橋は「コホロギ橋」16と呼ばれていますが、これはご神木(しんぼく)、即ち神(こう)の木「コホロギ」の傍(かたわら)の橋の意味だそうです。その木は、今はもう見当たりません。
優雅な愛らしい小橋としては、川添町(かわぞえちょう)で夙川に架かっている川添橋も見逃せません。鉄骨のアーチに軽く歩道を乗せた、橋脚の無い橋です。その軽快さには市民のお洒落(しゃれ)なセンスを感じます。
片鉾池(かたほこいけ)17は、内澱池(うちどのいけ)と呼ばれていたこともありました。桜の花びらが舞い、黄菖蒲(きしょうぶ)や蓮(はす)の花が咲き、蒲(がま)が穂をつける美しい池です。昭和7(1932)年に建てられたという夙川カトリック教会の大尖塔(せんとう)は、四季を通じて、夙川界隈(かいわい)に豊かな詩情を添えています。歌人の中村憲吉、歌舞伎の市川左団次が、この池のほとりに住みました。
片鉾池は、昭和8(1933)年に西宮市と合併するまでは、大社村森具(もりぐ)部落の用水池で、夙川を水源としていました。森具部落の人たちにとって、片鉾池の水はまさに命の水でした。しかし、森具部落が市街地化して、農業は行なわれなくなり、片鉾池の水が不要になる一方、夙川は生活廃水の流入で汚濁(おだく)が進みました。悪臭が池の周辺住民を悩ませました。
このため、片鉾池の底さらえが行われ、夙川の取水口は閉ざされました。現在、ポンプで地下水を汲(く)み上げて池に供給しています。その後、中新田川(なかしんでんがわ)や久出川(くでがわ)の川筋の下水道が完備しましたので、夙川は、かつての清流を取り戻しました。
夙川公民館は浮御堂(うきみどう)のように、水面にその姿を映しつつ、環境の変遷を見守っています。振り返ってみますと、私たちを包み込んでいる大自然は、遥かな太古から今日まで、絶えず変化し続けています。私たちも、自然に対して、愛着をもって、いつまでも共生していきたいものです。
マンボウ18は、JR の線路下をくぐり抜ける、たいへん背の低い通路です。どうしてこう呼ばれることになったのか、どうしてこんなに低いのか、レトロな感じで、とても興味を惹(ひ)かれます。
谷崎潤一郎は『細雪(ささめゆき)』で、昭和11(1936)年の六甲の山津波を生々しく描きました。芦屋、御影など阪神間は大変な被害に遭いました。西宮が、大して被害を受けなかったのは、夙川公園が、早々と整備されていたからともいわれます。
分銅(ぶんどう)町の一本松19は、マンボウとともに、谷崎潤一郎の『細雪(ささめゆき)』に書かれて有名になりました。地元の人たちに、摂津国(せっつのくに)菟原郡(うはらのこおり)と武庫郡(むこのこおり)の郡堺を示すものであると信じられてきました。注目されるのは、この古松の根方(ねかた)の石に刻まれた家紋です。分銅(ふんどう)を模(かたど)ったこの家紋は、出雲の藩主堀尾茂助のもので、秀吉の大坂城築城の際に刻まれたものであるとされています。分銅は、古来広く用いられた天秤(てんびん)ばかりの錘(おもり)です(町名としての分銅の読みは「ぶんどう」)。
森田たまは、「阪急山手の別荘地には、大きな屋敷の塀のそとへ、清らかな流れをひきまわして、あやめやかきつばたなど植えこんだ、見るからに涼しげな家もあれば、西洋風の建築にコンクリートでたたんだ浅い小みぞへ美しく水をはしらせた瀟洒(しょうしゃ)な家もあったりして」と書きました。
大石輝一画伯のアトリエであり、喫茶店でもある「ラ・パボーニ」20は、画伯自身の手で芸術的な装飾が、天井にも壁にも施されていました。小松左京、野坂昭如(あきゆき)、山下清も来店するサロンとなりました。阪神淡路大震災で、惜しくも全壊してしまいました。
西宮は国際交流の盛んな町ですが、その一端を物語るエピソードです。昭和24〜25(1949〜50)年の頃、アメリカ人夫婦の手でクリスマスツリーが夙川の街頭に飾られました。帰国された後も、ツリーを飾る費用はアメリカから送金され続けられ、毎年、羽衣(はごろも)橋に飾られました。雲井町に滞在中に生まれ、そして亡くなった子息への深く悲しい思いがしのばれます。ケビン君のお墓は満池谷(まんちだに)墓地にあります。
西宮市立郷土資料館21には、古代から現代までの様々な郷土資料を展示しています。常設展示や特集展示があります。市立中央図書館や市民ギャラリーも同じ場所です。
阪神電車「香櫨園」下車、南へ徒歩6分
阪急電鉄「夙川」下車、南へ徒歩17分
阪神バス・阪急バス「川東町」下車すぐ。
西宮市川添町15番26号
TEL:0798−33−1298
広田地区と隣接しているので、組み合わせて歩くとよいでしょう。