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広田神社2を中心とした地域です。西宮の歴史を考える上で、とても重要な意味を持っています。この辺りまで海が迫っていたなんて、想像し難いですが、戦争や海難の危険を冒してまでも、はるばる大陸からやってきた人たちがいたり、遥かな異国へ遠征した人たちがいたりして、この辺りで上陸したのかと思いますと、大きなロマンを感じます。
2千年前〜1千年前、西宮の海岸線は広田神社あたりまでが入り海でした。入り海のくびれた辺りにある港の地域は、津門(つと)と呼ばれていました。「津」は港、「門」は入口を意味する言葉で、古くは務古の水門(むこのみなと)とも呼ばれていました。現在も、津門、今津などの地名にその名残があります。しかし、平安時代頃より夙川・東川の運ぶ土砂が入り海に堆積(たいせき)し、海岸線が南下していきます。津門は港としての機能を果たせなくなり、新しい港を意味する今津が築かれます。
西宮の港は、呉織(くれはとり)・漢織(あやはとり)(綾織)などで知られる大陸の文化の伝承の上で重要な港でした。百済(くだら)の渡来人が稲作を始めとする農耕技術や染物を伝え、広田連(ひろたのむらじ)と呼ばれていました。地名をつけるときに、こうした民話や伝説を引用し、津門呉羽町(つとくれはちょう)、津門綾羽町(つとあやはちょう)、染殿町(そめどのちょう)などができています。
現アサヒビールの工場の場所は、津門大塚町と呼ばれ、かつて前方後円墳がありました。津戸首(つとのおびと)と呼ばれる、かなり勢力をもった豪族の古墳です。ここから銅鐸(どうたく)も発見されていますが、JRが開通するときに取り壊され、わずかにその地名に名残をとどめています。
また、すぐ近くの津門稲荷町(つといなりちょう)は、稲荷山古墳という前方後円墳にまつられていた稲荷があったことから名づけられています。両古墳ともその痕跡は残っていませんが、大塚古墳の石棺のふたに使われた石だけが、現在も津門神社内に津門神社と刻まれ、設置されています。
名次(なつぎ)は、もともと「なすき」と発音されました。名次の「名」は、菜、魚(酒のあて)を意味し、「次(すき)」は、宿(すき)(人が住んでいた集落)を意味します。このことから、「名次」は、魚をとる人たちの集落、つまり浜辺に近い集落と理解できますので、かつてこの辺りまで入り海であったことが分かります。
当時の様子を知る手がかりとして、万葉集の中に、高市連黒人(たけちのむらじくろひと)が詠(よ)んだ和歌があります。
吾妹子(わぎもこ)に 猪名野(いなの)は見せつ 名次山(なすぎやま) 角(つぬ)の松原 いつか示さむこれは、奥さんに稲野は見せたので、次は津門の入り海が近くまでせまっているこの名次山から角の松原を見せたい、と詠(うた)ったものです。名次山5は1200年前から名勝地として知られていました。
名次神社は、名次山の中央に鎮座されていましたが、1908年5月に、現在のニテコ池横に移されました。また、現在の西田公園が建設された時に漁具が発見されたことから、当時の名次山は、西田公園の場所にあったという説もあります。その西田公園には現在、万葉植物苑(えん)が設けられ、万葉集に詠まれた72種の植物が植えられています。他にも
などの歌もあり、当時は西宮にも鶴がいたことが分かります。
大和朝廷時代、百済(くだら)と新羅(しらぎ)が争う中、日本は、百済と友好関係にあったので百済を支援していました。神功(じんぐう)皇后(仲哀(ちゅうあい)天皇の奥様)が、新羅への遠征の帰途、難波をめざした船が海上をぐるぐる回って進めなくなりました。「務古の水門(むこのみなと)」にもどって占わせると、天照大神(アマテラスオオミカミ)が「わが荒魂(あらたま)を皇居に近づけてはならない。広田国に居らしめよ」との託宣(たくせん)を受けたと言います。務古の水門は、難波(なにわ)の都から向こうに見えるので「向こうの港」ということからつけられ、それが後には「武庫」という字もあてられるようになりました。
こうして、広田神社には天照大神の荒魂が奉(たてまつ)られ、宮内省から供物が奉納される官幣社(かんぺいしゃ)として栄えました。今も、171号線が南下しJRと交わるところに官幣大社(たいしゃ)広田神社の石碑が残っています。
その由緒と格式の高さは、棟の上に並べられた7本の鰹木(かつおぎ)からもうかがえます。この鰹木の数は、由緒ある古い神社ほど多くなります。ちなみに伊勢神宮は10本、伊勢外宮(げぐう)が9本、出雲大社(いづもたいしゃ)は3本です。
栄えていた広田神社も、平安時代末期には国の権力が衰えていくに従い、その勢いを弱めていきます。代わって、民衆(庶民)の力が強まるにつれて、庶民の信仰を集める西宮戎神社と門前町(もんぜんまち)が栄えるようになります。その当時に、
と詠(よ)まれています。
広田神社の参道ですが、本殿から横に出て、それから直角に曲がって南に下っています。普通は、本殿から真っ直ぐ下るはずです。近くを流れる御手洗川(みたらしがわ)がたびたび氾濫(はんらん)したためです。洪水の危険を避けて現在の位置に移されました。御手洗川は、神社の東にありますので、東川(ひがしかわ)とも呼ばれます。
広田神社は江戸時代以前には、高座(たかくら)町(当時「高隈原(たかくまはら)」)にあったと考えられます。高隈原の「高」は高い、貴いこと、「隈」は、国やかくれた土地を意味し、人目に触れず神々が住まわれる高台にある神聖な広地という意味から、この土地に広田神社があったと思われます。高座町や上ケ原にも、古墳が発見されており、古くから勢力のある豪族がいたこともうかがえます。
広田神社の境内から裏山に向かう遊歩道脇には、江戸時代に水路工事を成功に導いた中村治部(じぶ)紋左衛門の功績を称(たた)えた石碑である兜麓底績碑(とろくていせきひ)1があります。
徳川家光の時代、寛永(かんえい)18(1641)年に、社家郷(しゃけごう)、広田、越水(こしみず)、中村、西宮一帯は、大干魃(かんばつ)に見舞われました。当時、この地域の所有地であった社家郷山(しゃけごうやま)に降った雨水は仁川に流れ込み、甲山の北を通って大市庄(おいちのしょう)を経て武庫川に合流していました。「われらの山の社家郷山から集まる水は、本来、われらのもの」と考えた人々は、現在の甲山高校の裏に60メートルのトンネルを掘って、仁川から取水することにしました。たいへんな難工事でした。しかも、仁川下流の農民(『西宮市史』等では大市庄、兜麓底績碑説明板では現宝塚市の良元(りょうげん)村)の度重なる妨害があり、一触即発の事態となりました。仁川下流の農民が夜討ちしてくるとの情報が入った時、広田神社の神官であった紋左衛門は、殺気立つ村民をなだめ、単身、工事現場に向かいました。そして、神官の白装束(しろしょうぞく)、烏帽子(えぼし)に般若(はんにゃ)の面をかぶって岩の上に端座(たんざ)しました。夜、奇襲に来た仁川下流の農民は、これを見て、「天狗(てんぐ)」と思い込み、畏(おそ)れ慄(おのの)き逃げ戻りました。それ以降、流血の惨事は回避され、工事は順調に進み、トンネルは1643年に完成しました。
甲山高校の裏の水路には現在も水が勢いよく流れ、市の上水道の一部としても活用されています。兜麓底績碑(とろくていせきひ)とは、甲(兜)山の麓(ふもと)の地底に水路を掘った功績を称(たた)える碑という意味です。
広田神社の境内や広田山公園には、県の指定天然記念物に指定されているコバノミツバツツジの群生が見られます。この群生の広さに植物学の権威牧野富太郎博士が注目しました。昭和20(1945)年の戦災で荒廃しましたので、これを保護する活動が行われています。
コバノミツバツツジは六甲山系の自然環境で自生(じせい)しています。この群生を保護するとともに、市街化が進む中にあって、貴重な自然を残す広田神社の森を、多くの動植物が住める環境として守っていきたいものです。
満池谷(まんちだに)は、大阪層群の土である真土(まつち)が多くとれた場所です。きめのこまかい土砂は真土、砂れきの土砂は真砂(まさご)と言われてきましたが、この真土が転じて、満池になりました。この真土は、西宮神社の大練塀(おおねりべい)に使われ、「ネッテコイ、ネッテコイ」とはやしたて、行列を作って運んだことから「ネテコ、ネテコ」になり「ニテコ、ニテコ」に転訛(てんか)して、真土を運び出した池を「ニテコ池」4と呼ぶようになりました。
この池は、名次山(なつぎやま)と城山(しろやま)の谷あいに、上、中、下の3段に仕切って設けられた珍しい池です。
野坂昭如(あきゆき)の『火垂(ほたる)の墓』には、太平洋戦争の末期、この池のほとりの防空壕(ごう)で暮らした彼の体験が描かれていると言われます。阪神淡路大震災のとき、大きく崩壊しましたが、修復され、再び桜の名所として人々に親しまれています。
桜の名所となるについては、桜博士の笹部(ささべ)新太郎先生の情熱的な指導に負うところ多大です。水上勉(みずかみつとむ)の『桜守』に、主人公竹部庸太郎として登場します。
以前は、満池谷(まんちだに)墓地公園と呼ばれていました。平成7(1995)年1月17日の阪神淡路大震災で、西宮市でも多数の犠牲者がでました。この人たちを追悼する碑3が、平成10(1998)年1月17日に建立され、「震災記念公園」と改称されました。追悼碑には、1,146名の犠牲者のお名前が刻まれています。
満池谷(まんちだに)墓地6は、六湛寺(ろくたんじ)に市役所を建設するための代替墓地としてつくられました。元禄時代、今津に「大観楼(たいかんろう)」という私塾を開いて、多くの子弟に郷学を指導した飯田桂山(けいざん)先生(なぎさ街道参照)、名戦闘機「紫電改(しでんかい)」(なぎさ街道の「鳴尾と飛行機」参照)の開発途上で犠牲となった名パイロット海江田信武氏、羽衣橋のクリスマスツリーのトマス・ケビン・オ・ハラ君(夙川地区の「悲しきメリークリスマス」参照)らが葬(ほうむ)られています。また、山下汽船の船員たちを追悼する殉難碑は、ひときわ目をひきます。山下汽船は第二次世界大戦中、保有する96隻のうちの80隻と1,723名の船員を失いました。この船会社はもうありません。
この近辺の地層には、寒冷地の特徴をとどめるものと亜熱帯の特徴をとどめるものとがあります。そのひとつが満池谷累層(まんちだにるいそう)7です。今に至る100万年の間に寒冷な時期と温暖な時期が、4回繰り返され、それぞれの時期のものが重なりあっているのが地層断面に認められます。満池谷累層は、ラリックス層とも呼ばれ、大社中学校北東の地層を形成しています。メタセコイアの研究で知られる三木茂博士が、昭和16(1941)年、西宮に現存しないグイマツ、シラカンバ等、寒地性植物(寒冷な気候のなかで生育する植物)の遺体を発見されました。このことは、西宮に氷河時代があったことを証明しています。
もうひとつは、アデグ層です。昭和30(1955)年、広田小学校を建設の際、ナギ、アデグ等、ベトナム、台湾、沖縄などの暖地性植物の遺体が発見されました。このことは、西宮に亜熱帯気候の時代もあったことを示しています。この地層は、ワニの遺体が発見された豊中方面にまで伸びています。
また、甲山の湿原などでは、寒地性のものと暖地性のものと、植生が混在して残っています。自然界の営みには、人の想像を超えた偉大さを感じます。
その昔広田神社より甲山を望む北の方角は、神原(かんばら)と呼ばれていました。見渡す限り神々(こうごう)しく草木が生い茂る山地でした。阪急甲陽園線の開通とともに開けました。「播半(はりはん)」「つるや」など高級料亭の名が『細雪(ささめゆき)』にも出てきます。甲陽大池(おおいけ)をとりこんだ遊園地が出来、映画の撮影所もできました。その頃は、芦屋や宝塚にも映画の撮影所がありましたので、夙川や西宮の界隈(かいわい)は映画女優さんはじめキネマの人たちの姿がよく見られたそうです。
阪神淡路大震災のために思わぬ被害が発生し、活断層の存在が俄(にわ)かに注目されています。
昭和10(1935)年6月29日、記録的な集中豪雨によって、甲陽大池8の東部が決壊しました。高台からの濁流が、広田神社の前を南に激しく流れくだり、六湛寺(ろくたんじ)、馬場町、本町など低地の一帯を泥海と化し、一時はボートが出るほどの、大きな損害を与えました。
森田たまは、随筆に「広田のお池がつぶれたら、常盤町(ときわちょう)の自分の家なんかひとたまりもない。いったん豪雨となると、小みぞに水があふれ、あふれた水は山手から下町へ、路を川にし、激しい勢いで滔々(とうとう)と流れる。たいていの家は、浸水を免れるため土台を高くしている。元来が砂地なので、雨があがるとすぐ乾く」と書きました。市民生活の安全確保には、山地の保水力を考慮する必要があることを示唆しています。
睡蓮(すいれん)や黄菖蒲(きしょうぶ)などが美しい花を咲かせます。春には、冬鳥と夏鳥が交代する様子が見られます。近年はコアジサシが姿を見せなくなりました。カワセミが時々来ます。
神原(かんばら)に、あずき凝灰岩(ぎょうかいがん)の露頭(ろとう)(阪急甲陽園線脇のNTT敷地内)があります。約70万年前に、近畿地方の広い範囲に、火山灰が降ったことを示すものです。
地殻変動によって上昇したり下降したりして、凝灰岩層となりましたが、あずき色をしているので、「あずき凝灰岩」と名づけられました。地質学上、たいへん貴重なものです。市内各所に見られましたが、急速に消滅しました。
中村は、広田と西宮の中間にある集落であることからついた地名です。広田と西宮が一大集落であったことがうかがえます。かつては入海(いりうみ)だったので、じめじめしたところで、砂泥であったために軟弱な土地でありました。こうした軟弱な地盤の上にある町は、先年の震災などでは被害を大きく受けてしまうことを忘れてはならないでしょう。
中前田は、昔、津門に在住した前田氏が、新田開発のために移り住み、前田姓が多く居住していたことから名前がつけられました。
なお、兜麓底績碑(とろくていせきひ)(別項参照)で英雄として讃(たた)えられている治部紋左衛門(じぶもんざえもん)は、この中村の人でした。
かつての西国(さいごく)街道は、京都から伊丹を通り、武庫川を渡ると、越水城(こしみずじょう)あたりで南に下り、森具(もりぐ)の方面へと続いていました。時代の変遷とともに、街道のルートは、広田神社から南に下り、与古道(よこみち)あたりを曲がって本町筋から、戎神社に向かう道へと変わったようです。
越水城は、戦国時代に、武将の瓦林正頼(かわらばやしまさより)が築城しました。1567年、ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスが訪ねてきました。織田信長に面会したという有名な人物です。西国街道の要衝であったことがうなずけます。越水城の城跡は、西宮市立大社小学校になっています。西宮市もまた、太平洋戦争末期に何回も激しい空襲を受けました。投下された爆弾の弾痕が、城の石垣に残っていました。阪神淡路大震災により損壊しましたので、弾痕部分は、大社小学校のメモリアルホールに保存されています。なお、このメモリアルホールには、空襲の際に焼夷弾(しょういだん)で傷ついた擁壁(ようへき)や、機銃掃射(そうしゃ)の弾痕がついた鉄扉や屋上の手すりも、共に保存されています。
ガスも電気も無くて、ロウソクか菜種油(なたねあぶら)の明かりで暮らす生活を、ちょっとご想像ください。とっぷりと夜の闇に包まれて、灯火が揺れると、障子(しょうじ)に浮かぶ人影が、不気味にゆらりと揺れます。
怪談はそんな暮らしの中で、たくさん語られました。その中に、ニテコ池に身を投げて亡くなった人の話もありました。そうしたお気の毒な人のために、鎮魂(ちんこん)の碑が建てられました。
夙川地区と隣接しているので、組み合わせて歩くとよいでしょう。
【広田神社へのアクセス】阪神バス・阪急バスともバス停は、「高座橋(たかくらばし)」が分かり安い。「広田神社前」は、神社への道や方角が分かりにくい。阪神バスは、山手線東回り(西回りも可)阪急バスは、西宮北口−甲東園線。
広田神社からスタートするのもいいし、阪神香櫨園駅からスタートするのも結構です。