番号 は地図のポイント番号です
創成期の西宮の海岸線の確かな資料は見当たりません。武庫川に面したあたりは、縄文時代頃の海岸線は現在の阪急線付近まで入り込んでいたと言われています。武庫川の河口もJR線の山手にあって、この河口一帯に武庫川の流れによって運ばれた砂礫(されき)と海から寄せられた砂で出来た大小数多くの洲が点在し、海岸一帯は遠浅の瀬になっていたようです。6世紀頃、小さな洲がまとまって里を形成し、河口も南下して現小松東町の付近に延び、小松崎と呼ばれました。このあたりから西が武庫(務古(むこ))の水門(みなと)と呼ばれ、大陸からの交易船の船着場になっていたと言われています。
岡太(おかだ)神社から西に海岸が続いていました。そして海岸線は、八幡神社の東側を南に下っていましたが、そのあたりは「鳴尾崎」(旧本郷・現鳴尾町1〜4丁目)と呼ばれていました。そこから西南に向かい甲子園球場のあたりは、浅瀬となっており、ナカ洲に続いていたようです。16世紀以後、旧国道の南の新田開発が進み、さらに埋め立ても行われて、今日の海岸線が形成されました。
また、中津より西にある今津ですが、その名前は、新しい津、今の津と言う意味であって、母村の津門の東から南にかけての海辺に生まれた地名であることがよく知られています。なお、万葉の時代には武庫の入江などと詠まれています。
この渚鳥は今は甲子園洲鳥(すどり)町(旧今津洲鳥町)として町名として生かされいます。
その後、武庫川の度々の氾濫や、夙川・御手洗川(みたらしがわ)の流れが土砂を運び、土地が南へ南へと広がりました。鎌倉時代の記録によれば、およそ13世紀ごろ、現今津の中央部からやや東北部または北部において最初の村の形成が始まったと思われます。(西宮の海岸線については西宮津門地区参照)
こうして形成されたこの西宮の臨海地区では、私達の先人が水害・高潮などの災害を克服して自然の環境を守った努力を忘れることは出来ないでしょう。
このなぎさ街道には甲子園浜・香櫨園(こうろえん)浜があり、海辺の生きもの観察なども出来ます。
また、西宮の発展に大きな影響を与えた御前(おまえ)の浜、西宮の旨酒(うまざけ)を生んだ酒蔵、日本一古い今津灯台、高校野球のメッカ甲子園球場の前身の鳴尾球場、西宮砲台、今津灯台など見どころが沢山あります。親子で歩いて楽しめるのではないでしょうか。
鳴尾の大地主であった辰馬(たつうま)半右衛門氏は、阪神電車が開通した翌年の明治39(1906)年、場所は現在の東鳴尾町1丁目一帯に席亭(せきてい)(茶室、宴会場)や築山(つきやま)を築いて百花園(ひゃっかえん)1という庭園を造りました。四季折々の風情を楽しむことができたそうです。
阪神電車に経営が移ってからは「武庫川学園」という郊外学舎の施設として利用されました。昭和14(1939)年、公江喜市郎(こうえきいちろう)氏は武庫川学院を創設しましたが、武庫川学園の施設は武庫川高等女学校の仮校舎として転用されました。
鳴尾はその昔、西瓜(すいか)の産地でしたが、明治37(1904)年、鎌倉作蔵という人が苺(いちご)の苗を持ってきて栽培を始めたのが鳴尾の苺2の始まりです。
大正8(1919)年には、阪神電鉄とタイアップして「畑への入場料20銭、苺は食べ放題、砂糖、ミルク、お茶の接待」という苺狩りが始まり、鳴尾の苺は有名になりました。
昭和初期には全盛期を迎え、鳴尾の至るところでイチゴが栽培されていたと言われています。しかし、昭和9(1934)年9月12日の室戸台風で阪神本線以南の地域が高潮の被害に遇い壊滅的な打撃を受けました。さらに、その後の戦時体制によって川西航空機の工場拡張地として耕作地が収用されたり、食料増産政策の下で苺栽培そのものが出来なくなったりしました。
戦後、苺栽培は一時復興しましたが、この地が住宅地へと変貌するなかで消滅しました。
明治41(1908)年、鳴尾速歩競馬場が開設されましたが、まもなく馬券が発券禁止となり、競馬場は荒れるがままとなりました。
大正3(1914)年、魚崎町横屋(神戸市東灘区)にあった横屋ゴルフ・アソシエーションを経営していたW・J・ロビンソンが、鳴尾速歩競馬場の跡を借り受けゴルフ場を開きました。
大正9(1920)年、このゴルフ場も経営難で閉鎖されましたが、この地に鈴木商店を中心とする関西財界人によって日本で3番目に古い鳴尾ゴルフ倶楽部が結成されました。一時は鳴尾川から武庫川べりにかけて18ホールを有する東洋一のゴルフ場となりました。
鳴尾川河口左岸に鈴木商店は大正7(1918)年、満州から大豆を輸入して油を搾る製油工場を造りました(後の豊年製油)。金融恐慌で土地は鈴木商店から浪華(なにわ)倉庫の所有となり川西航空機製造(現新明和工業)に移っていき、武庫川河口尻のゴルフ場の一部が航空機工場となりました。その後昭和9(1934)年に昭和電極(現エスイーシー)の工場が建設され、川西航空機の工場拡張により鳴尾ゴルフ倶楽部は昭和14(1939)年に猪名川上流に移り、工場地帯へと変貌を遂げました。
戦後、川西航空機は自動車産業への転換を図り、オートバイのポインター号の生産で名を馳(は)せました。ダイハツの子会社であった旭工業は小型三輪のミゼットの生産を行い、昭和電極はカーボン電極の生産を復活しました。なお、ここに大規模な高層住宅団地の建設が着手されたのは昭和51(1976)年のことです。
武庫川河口の開発としては、さらにその東、丸島があります。丸島は、これまで鳴尾村と西新田村(現尼崎市)が入り会う草刈り場として利用されてきました。
この地の開発は宝暦(ほうれき)8(1758)年以来いくたびか出願されましたが、尼崎藩がこれを許可しませんでした。それは尼崎浦漁民から、漁場や網納屋(あみなや)の場所が失われると反対があり、また、上流の村々から、洪水時には島全体を水が越して流れるのに、この島が開発されると水流が妨げられるとして反対がありました。
しかし、17〜19世紀の間に堆積が進み、丸島の地は洪水時にも水没することもなくなって開発が本格的に可能になりました。こうして天保(てんぽう)8(1837)年、西新田村藤兵衛と同村のうち浜新田の平左衛門の開発出願が許されました。2年後には、鳴尾村に属した平左衛門新田の開発が実現しました。
平左衛門新田は昭和41(1966)年に西宮市平左衛門町となり、後に昭和44(1969)年、尼崎市田近野(たぢかの)との交換で尼崎市に移りました。
明治44(1911)年3月、鳴尾競馬場において、アメリカ人マースがカーチス複葉機で飛行の妙技を披露しました。この鳴尾競馬場は現在の浜甲子園団地と武庫川女子大学薬学部のあたりです。
大正3(1914)年に第1回、大正4(1915)年に第2回の民間飛行大会が行われました。その後、日本のヒコーキ野郎の伝統は川西航空機に引き継がれ、川西航空機が鳴尾に進出したのは昭和5(1930)年のことです。武庫川尻のゴルフ場跡(現在の武庫川団地)の一部を買収して工場3をつくりました。大戦末期「零戦(ぜろせん)」にかわる名戦闘機「紫電改(しでんかい)」を生み、米軍パイロットを恐怖におとしいれたものです。
鳴尾浦は阪神間でも良い漁場と言われていました。
明治19(1886)年の干ばつ救済事業で、前浜(枝川町)大東(高須町)一帯の干拓事業や、昭和初期の海岸埋立で漁獲が少なくなりましたが、昭和30年代までは漁業が活発に行われました。中津浜ではとれた鰯を釜ゆでし天日で干して「宮じゃこ」の生産が行われていました。
また、大正14(1925)年に甲子園浜に海水浴場が開場しました。昭和30年代後半からの高度成長で海は汚れ、昭和40(1965)年に海水浴場は閉鎖されました。
昭和42(1967)年には鳴尾浜の埋立事業が開始(昭和51〔1976〕年竣工)され、46(1971)年には甲子園浜の埋立事業計画が発表されました。このようななか「自然を守れ」「浜を守れ」という住民運動がおこり、粘り強い運動の結果、昭和54(1979)年、鳴尾川河口一帯の干潟が鳥獣保護特別区に指定され、埋立計画は縮小され砂浜は守られました。
明治40(1907)年、前浜(枝川町)に関西競馬場が開設されました。翌41(1908)年には、東浜(高須町)に鳴尾速歩競馬場が開設され、鳴尾には2つの競馬場がありました。
しかし、射幸心(しゃこうしん)を煽(あお)るとして馬券の発券が禁止され、明治43(1910)年、2つの競馬場が合併して阪神競馬倶楽部をつくり、関西競馬場が鳴尾競馬場と改められました。
大正5(1916)年から大正12(1923)年の間、休止していた競馬場のトラック内を利用して阪神電鉄が鳴尾運動場を開設して、夏の高校野球の前身である全国中等学校優勝野球大会を豊中グランドから誘致しました。
昭和12(1937)年、この競馬場の所管が日本競馬会となり、名称も鳴尾競馬場から阪神競馬場と改称しました。昭和18(1943)年、戦時体制が強まり川西航空機の飛行場とするため、当時の良元(りょうげん)村(宝塚市)に移転し36年の幕を閉じました。
広大な土地はその後、海軍の飛行場となり、戦後は米軍のキャンプ場となりました。昭和36(1961)年、日本住宅公団によって浜甲子園団地の建設が着手されました。
また、武庫川学院に払い下げられた土地には昭和10(1935)年に建てられた鳴尾競馬場の建物が残っており、鳴尾に残る唯一の名残となっています。
水は私たちの暮らしになくてはならないものです。しかし、水があまりにも身近な存在であるため、多くの人々は、その役割をあらためて考えたり、使い捨てられた水に関心を寄せたりする機会が少ないのではないでしょうか。
家庭や工場では、毎日大量の水が使われ、排出されています。下水道は、それらの汚水を運びます。下水道の整備によってトイレは水洗化され、街は衛生的になりました。また、大雨の時、下水道は家を浸水から守り、道路の帯水を防ぎます。一方、処理場では、集められた汚水をきれいな水に戻し、再び海や河川に放流することで水質保全に努力が重ねらています。より快適な生活づくりが実現してきました。
ところが近年、環境問題や水問題が注目され、下水道の役割は「きれいにする」だけではなく、一度使われた水も大切な資源として「積極的な活用」をすることが求められています。こうした時代を背景に、枝川4は、再生した水を利用してせせらぎを回復して、緑と水辺のある魅力あふれる環境へと生まれかわりました。
阪神電鉄が休止中の鳴尾競馬場に運動場を作ったのは大正5(1916)年3月のことでした。翌6(1917)年より第3回全国中等学校野球大会(以後甲子園へ舞台が移る大正12〔1923〕年迄毎年)が開催されました。野球場が2面、400mの堀を利用したプール。800mのトラックなど持てあます広さの運動場であったと言われていました。
この運動場は大正13(1924)年の甲子園球場の開場によって閉鎖されました。
昔、鳴尾の浦の漁師が武庫の浦で漁を行っていた時、網にかかった物体を何の気なしに海に戻したところ、和田岬の沖で同じ物がまた網にかかりました。不思議に思って、それを持ち帰って帰りました。ところがある日、神様が夢まくらに立たれ、「これより西によき宮地あり、吾れその地に行かん」とお告げがありました。目を覚ますと、網にかかった物体はなくなっており、代わりにえびす様の像が立っていました。漁師は驚いて、早速里の人々に相談し御神輿(おみこし)を造り、えびす様は現在の西宮神社に鎮座されるようになりました。この話は西宮の民話としても知られています(西宮津門地区も参照してください)。この御神幸(ごしんこう)までの間、御神体(ごしんたい)を祀(まつ)っていた場所を里人は元戎(もとえびす)と呼んでいました。この元戎は2か所ありました。その一つは中津の砂浜新田でしたが、現在は平成12(2000)年に甲子園町の素盞鳴(すさのお)神社に移され祀られています。もう一つは現在の鳴尾支所の東側に祀られていたそうですが、昭和20(1945)年の空襲の頃、その祠(ほこら)は無くなりました。
なぜ、鳴尾に元戎が2か所あったのか。これは推測ですが、漁師が持ち帰ってお告げがあった頃に祀(まつ)られていたのが中津の元戎で、里人に相談してのち神幸までの間、祀られていたのが鳴尾支所の東側に有ったとも思われます。
甲子園球場の誕生以後、球場の南側に国際庭球場、浜甲子園プール、甲子園南運動場が矢継ぎ早に建設され、昭和7(1932)年の阪神パーク開園頃には甲子園球場から南部一帯は日本でも屈指のスポーツ・レクリエーションのセンターとなりました。しかし、昭和18(1943)年戦争のために施設の多くが接収されました。
武庫平野一帯は米(表作)麦(裏作)の主産地であると共に、綿や菜種の産地でもありました。その中で綿作りは肥料を多く使う仕事でした。肥料に金をかければそれだけ収穫量が増えます。干鰯(ほしか)が肥料として、どんどん使われようになると、干鰯を求めて商人が全国に動き、いきおい干鰯の値段がつり上がります。
当時の農家にとって金肥(きんぴ)(お金を払って買う肥料)の支払いは経済的に苦しかったのですが、収穫量を確保するためには金肥を投入しなけれはなりませんでした。
ともかく、農家は生計を立てるために米・麦・綿・菜種・豆・たばこなどありとあらゆる方法をとっていました。砂地地帯の鳴尾・今津方面ではやはり綿作りを行っていましたが、綿作は湿田地帯では収穫の少ないこと、さらに菜種作りの方が有利になったことなどから、菜種作りも盛んになりました。菜種は灯油・髪油・食用油などに使われる生活必需品であったからです。
日本の灯台は承和(じょうわ)6(839)年に遣唐使船の航海安全を図るため防人(さきもり)によるかがり火が始まりらしいです。
灯台と名の付くものは、慶長(けいちょう)13(1608)年、能登の羽咋(はくい)が最初で、江戸時代のものは、灯明台(とうみょうだい)とか高灯籠(たかとうろう)と呼ばれています。今津港灯台もその一つです。
ところで、今津港は、寛政(かんせい)5(1793)年にできたと言われています。今津は灘五郷の一つで、江戸積みの酒が多く、西宮ともども、樽廻船(たるかいせん)の出入りで栄えました。今津郷の酒造家長部(おさべ)家が、この港に出入りする船のために文化7(1810)年、灯明台(とうみょうだい)を建てました。それが今の「大関酒造今津灯台」5の始まりです。台石に「象頭山(ぞうずざん)常夜灯」の文字があります。これは安政(あんせい)5(1858)年の再建の時、海の守り神であります四国の金比羅さんに奉納した灯明台というわけです。
この灯明台は外観は昔のままの木造あんどん式です。
時代と共に内部は変わっています。かつては油皿に灯心を用い、毎夕、油をさげて点火していました。点じた灯火をつるべ式滑車で引き上げました。当時、四面は油紙障子(あぶらがみしょうじ)で囲われていました。大正初めには、これが電化され油障子も取られました。現在は戸外の明るさに応じて自動点火するしくみとなっています。
灯台のあった白砂青松(はくしゃせいしょう)の海岸もすっかり変わってしまいましたが、昭和43(1968)年、解体大修理がなされ、航路標識として海図や灯台表に登載されて、民営灯台として再出発しました。その意義は大きく、現在あるのも、自らの手で守りぬくとして尽力した長部家の功績のおかげです。
明治5(1872)年8月、明治政府より学制が公布されました。それは日本が世界の列強に通ずる近代国家建設への大号令でした。しかし、目標は高くても学校教育に関する費用は、すべて町村民の自前という状況でした。このような時代において、まず今津村と津門村が連合して明治6(1873)年4月今津常源寺(じょうげんじ)(現今津水波(みずなみ)町)の仮校舎で今津小学校を開校しました。そして明治15(1882)年、今津出在家(でざいけ)(現今津小学校所在地)に新校舎を完成させました。中央玄関上の六角塔屋が珍しい木造のハイカラな洋風の校舎です。
さて、このハイカラ校舎の建築費は8,000円。すべて村民負担でしたが、うち5,200円は両村民の寄付でした。今津では宝暦(ほうれき)5(1755)年、海岸近くに大観楼(たいかんろう)という学問所を建て、京都から著名な学者を招いて学問に励み、優れた学者を多数育てあげました。学問にかける意欲の強さはこの地域の伝統的でしたが、当時、米一石が8円か9円の時代、しかも、酒造業不振の時によく出されたものです。この校舎は今津の誇りであります。
今津大観楼(たいかんろう)6は、江戸時代の宝暦(ほうれき)5(1755)年に飯田桂山(いいだけいざん)という人が開いた塾で、その当時この地における教育、文化の発展に大きな影響を与えました。学舎は風光明媚(ふうこうめいび)な今津海岸近くに建てられました。そこからは摂津・和泉・紀伊・阿波・淡路などが遠望できたことから大観楼の名がついたといわれています。
飯田桂山はもともと今津の酒造家でしたが、学問好きで多くの学者に師事し、自らの学業のかたわら、郷土の子弟の教育に努めました。
また、この地を訪れた学者を厚くもてなしたことでも知られ、なかには京から招かれた西依成斎(にしよりせいさい)のように16年にわたってこの地にとどまり、熱心に人々の教育にあたった人もおり、多くの人材を世に輩出しました。
今は、小西酒造西宮工場の正門前東側の歩道に、大観楼の案内板があります。
東南に流れる六湛寺川(ろくたんじがわ)と南に流れる東川は1地点で出合いながらも、東川(ひがしかわ)が天井(てんじょう)川(川床が周囲より高い川)であるために合流できず、中央の堤防を挟んで500m余り並行して東南に流れています。そしてここで南流してきた津門川(つとがわ)と東川が合流して海に注ぎます。この段差のある3つの川が並・合流する地点7の堤防・護岸工事はなかなかの難工事でした。この酷しい地勢は「用害(ようがい)」といわれていました。これが用海町の町名の由来です。
こうした難所でありましたので、昔の人が築堤しても、しばしば決壊して周辺は水浸しになっていました。そのため江戸時代には、信行寺(しんぎょうじ)前から東川にあがる堤に川番が2戸おかれて出水の警戒・用心にあたっていました。この堤にはハゼの木が植えられて、秋の紅葉の頃にはもみじ狩りで大変に賑わったそうです。
西宮の町は17世紀半ば迄に生まれた古い町です。
街道筋15町を江戸時代には町方と呼んでいました。
これに対して町方の南に発展した、浜之町、浜鞍掛(はまくらかけ)、浜久保・浜石在・浜東の5町を浜方8と言いました。
この浜方は、古くから住む漁民や干鰯(ほしか)(干した鰯(いわし)などを原料にした肥料)問屋なども有力住民でしたが、この地域を大きく発展させたのは酒造業者および関連する、廻船(かいせん)問屋や桶(おけ)・樽(たる)屋でありました。
酒造業者は享保(きょうほう)年間(1720頃)の82軒をピークとし、幕末に31軒と数こそ減少していますが年間の生産高は、3,000石を超える業者も3軒を数えるなど経営規模が大きく蔵(工場)数は45ありました。
その一画には明治時代の酒造業改革のリーダーの1人の辰馬喜十郎氏の遺(のこ)した洋風住宅や煉瓦(れんが)造りの酒蔵(いずれも兵庫県と西宮市の指定文化財)が白鹿記念酒造博物館の一部となって、今もその当時のモダンな美しさを見せています。
また、明治21(1888)年、辰馬(たつうま)喜十郎氏邸は神戸英国領事館を模して和洋折衷の住宅も建設しました。阪神淡路大震災で大きな被害を受けましたが、主体が木造であるために内部に至るまで復元がなされました。練瓦造りの内蔵(明治25〔1892〕年建設)は復元ができませんでしたが、展示収蔵品の大部分は救出・復元がされました。
お酒の先進地は京の伏見、大阪の池田、兵庫の伊丹です。しかし、ここで出来た酒の大半は江戸への下り酒です。
もっとも馬の背に幾らかの酒樽を乗せて東海道を東(あずま)下りをするのですから量的にも時間的にも満足出来るものではありません。待望されるのは海上輸送です。
樽廻船(たるかいせん)による海上輸送の時代がやってきました。元禄(げんろく)15(1702) 年の新綿番船(しんめんばんぶね)に次いで享保(きょうほう)12(1727)年、新酒(しんしゅ)番船が大坂(阪)安治川と西宮から出帆しました。
次いで安永(あんえい)元(1772)年には幕府公認の大坂8艘、西宮6艘が同時刻に出帆しました。ところが、天明(てんめい)5(1785)年に天候上安治川が不利とあって、14艘すべてが西宮に集結して出帆、これが恒例化したのは文化2(1805)年のことです。
ところで、出帆はまことに華やかな行事でした。海岸の切手場で切手をもらった船頭は砂浜を一目散で待ち受ける伝馬船で沖合の本船へ、そして新酒の樽を船腹一杯に積み込み、装いも華やかに新酒番船は熊野灘、遠州灘をひたすら江戸に向かって全力をあげて走りはじめます。いわゆる番船争いが始まるのですが、出帆までの行事は、まさにお祭り騒ぎで、西宮にとっては十日戎と並ぶ2大、年中行事でありました。
さて品川沖に着いた1番船(ばんぶね)の船頭は伝馬で問屋に向かいます。ここで1番札と共にもらった赤いはんてんを着て太鼓を叩いて下り酒問屋街の新川新堀界隈を踊り歩きます。1番札(ばんふだ)を取れば、1番いい値段と1番いい待遇を1年間受けることができるのだから無理もありません。ちなみに平均6日の行程を1番船は4日足らずで走り抜いた記録があります。
西宮港も今津港・鳴尾港と共に、古くは漁港でした。新酒積出し港として繁栄したのは江戸時代になってからです。西宮に港が整備される以前の瀬戸内海には兵庫・大坂(阪)間に風待(かざまち)の港がなく、航海する船が積荷もろとも強風や悪天候で失われることもしばしばでした。
西宮の商人当舎金兵衛(とうしゃきんべい)がこれをみかねて西宮浦築港を大坂奉行所に願いでたのは寛政(かんせい)12(1800)年のことです。西宮港は洗戎(あらえびす)川の河口にあって、放置しておくと夙川の河口から流れつく土砂が港を埋めていきます。そのため金兵衛は夙川の東に長い突堤をつくって波風と土砂を避けることを計画しました。築港の絵図を奉納して氏神(うじがみ)西宮戎の加護を祈り、多くの人の助力を得ての築堤工事は無事成功し港の繁栄の基礎が築かれました。
港に臨む住吉神社には金兵衛の業績を讃える記念碑が残っています。
かつて江戸への新酒積出港として賑わった西宮港の南端に西宮ヨットハーバー9があります。昭和31(1956)年に県下で開催された国民体育大会の際に造られました。その後、日本人で初めてヨットの単独太平洋横断をなし遂げた堀江謙一さんのマーメイド号の母港として一躍有名になり、ヨット人口の急増と共に関西を代表するヨットハーバーの一つとして発展してきました。
開発の進むウォーターフロントと市街地を結ぶ西宮大橋は、全長590m。真紅の大橋をくぐってハーバーと大阪湾を往復する白いヨット。大橋の上から六甲を背にした西宮の美しい風景が眺望でき、新たな名所となっています。
西宮の海は、古来、魚の宝庫でした。その魚を求めて漁業が栄えました。西宮神社の前の海は「御前(おまえ)の浜」といって、特に魚類はタイ、ハモ、イワシをはじめ豊富でした。
西宮の守り神、戎(えべっ)さんは海から来た神様です。戎さんの姿は釣竿にタイを抱えた仕草で漁業との因縁浅からぬものがあります。そして江戸の「西宮名物」に酒、タイ、ハモが数えられています。
しかし、量的にはイワシ漁にはかないません。地引き網漁法によるイワシは小ぶりでイリジャコになります。良質なために「宮ジャコ」と呼ばれ重宝がられました。一方、干鰯(ほしか)という形で、この西宮の主産業の綿、菜種栽培の肥料としても盛んに使われました。宝暦10(1760) 年には西宮の干鰯問屋が実に37軒もあったという記録があります。この頃から明治半ばまでの西宮の海岸一帯は綿(わた)畑だったようです。
ところでイワシの地引き網は戦前までは盛んに行われていました。漁が終わりに近づき水揚げが始まると砂浜にイワシ売りのオッチャンが待ち受けて仕入れてイワシを並べた木箱(セイロという)を積み上げた自転車で脱兎(だっと)のように町に向かいます。そのころ町では夕食の支度時、ちょうどいい時間に「トレトレのイワシッ」の声を耳にした主婦は飛びついて買い求めます。しかし「テテかむイワシやでぇ」とその鮮度の良さは保証つき、これほど見事に鮮度を言い表したCMには現代人も驚きです。
この言葉も戦後になって聞くことが出来なくなり、さびしい話です。
昭和34(1959)年4月、名市長とうたわれた辰馬卯一郎氏は、13年間にわたる市長の座を降り、次の市長には田島淳太郎氏が登場しました。長年にわたる市会議員と市会議長も再三務めた議会の実力者として定評がありました。
まずは予想通りの市長就任でありました。しかし市政への取り組みは、その強気な姿勢によって波風が起きていたようです。そんな中、日石誘致の問題が起こりました。
三重の四日市、山口の下松(くだまつ)、徳山などの市に刺激されて当時の市長は、市の活性化を図ろうとして西宮の臨海工業地帯に日本石油の誘致する政策を打ち出しました。ところが、西宮市民は水や大気汚染による公害の発生を恐れて、直ちに反対の声をあげました。特に西宮が全国に誇るべき宮水の汚染必至と、酒造界は一致団結、強気に迫る田島市政に反対の輪を広めました。
やがて田島市長の再出馬に、反対派は辰馬(たつうま)龍雄氏を出馬させ、市を二分する市制はじまって以来の大騒動となりました。市民は宮水を守り大気汚染阻止に断を下したのです。
かくして、日石は西宮進出を断念して、町は平穏を取り戻しましたが、後日、四日市ゼンソクが社会問題となり、西宮は公害防止先取り都市第1号として評価されることになりました。
西宮市は、この問題を契機に市民のひとしく望むところにしたがって、風光の維持、環境の保全・浄化、文教の振興を図って、当市にふさわしい都市開発を行って、市民の福祉を増進するために西宮市を「文教住宅都市」と定めました。
幕末の西宮は我が国の主要街道が東西に貫通するだけに、世情騒然とした中で住民は一様に不安な生活を余儀なくされていました。
その不安に追い打ちをかけるようにロシアの軍艦が天保山(てんぽうざん)沖に停泊、大阪湾沿岸の人々は大変驚き、幕府の摂海防備(せっかいぼうび)に力を入れました。例えば文久(ぶんきゅう)3(1863)年、将軍家茂(いえもち)は軍艦順動丸に乗り西宮沖に到着してボートで上陸視察しました。これよりさきに和田崎、湊川尻、西宮、今津、天保山沖に砲台を造ることにして責任者の勝海舟(かつかいしゅう)は西宮に来て場所を決めていました。
工事は文久(ぶんきゅう)3(1863)年8月開始、世情不安を反映しての突貫工事、従事者たちの日当や食事も良かったようです。
地盤には西宮1,541本、今津1,157本の松杭を打ちました。石は六甲山系の御影石は輸送費が高くつくので岡山の島々の石を主に使ったようですが、時には西宮近在の石も使いました。ところでこの砲台は、幕府が倒れたので完成は定かではありませんが、西宮の砲台10では試しに空砲を発射したところ、内部に硝煙(しょうえん)が充満してとても実用には耐えなかったようです。
更に明治17(1884)年火災で3層の内部の木造部が焼失しています。その後荒れるにまかせてましたが、国の史跡のため、国・県の補助と市費に所有者阪神電鉄の支出金2500万円で昭和49・50(1974・75)年度の2か年で大改修が行われて当初の姿が復元されました。
一方、今津砲台11は明治43(1910)年海軍省から払い下げられて、大正4(1915)年に取り壊されましたが、石材の一部が「今津砲台記念石」として、現在、今津灯台の東側(今津真砂町)に記念碑としてあります。
これらの砲台は幕末の西宮を知る貴重な生き証人です。
明治38(1905)年7月、阪神電鉄は開通最初の夏に打出海水浴場を開きましたが、業績が思わしくなかったらしく、明治40(1907)年7月には場所を打出から香櫨園(こうろえん)浜12に移設しました。
さらに、海国日本のスローガンよろしく直ちに水練所を設けて河童の養成に励みました。
やがて香櫨園遊園地の閉鎖のため、大正のはじめに遊園地から移された音楽堂、「阪神館」と呼ばれた公会堂式の演芸館(旧博物館)などを設け、連日、大変な賑わいを見せていました。
阪神電鉄の香櫨園駅から海岸までの夙川の堤を歩く人々の潮騒のような下駄の音、松林に途切れなく並んだ、夜店のアセチレンの灯に照らされた松の青さは鮮やかだったそうです。
万葉の昔、今の阪神間は武庫と呼ばれていました。
その武庫を詠(よ)んだ代表的な歌人といえば、柿本人麿と同時代の高市連黒人(たかいちのむらじくろひと)でしょう。黒人は西宮の風景をこのように詠んでいます。
この歌は、愛する女性に対して、有馬山(六甲山)の見える猪名野はもう見せてあげたから今度いつか、名次山と角の松原を見せてあげようと詠んでいます。
現代風いえば、名次山は明石海峡を眼下に望む垂水あたり、角の松原は明石大橋の舞子海岸を思わせるのでは、ないでしょうか。
これは天平(てんぴょう)2(730)年、大伴旅人(おおとものたびと)が栄転で上洛(じょうらく)の途中に、その従者が海上で詠んだといわれています。
海女の少女たちの焚く漁火がぼんやり見えていたあたりが都努の松原では美しい松原に思いをよせて詠んでいます。
その他にも武庫の浦(大阪湾)を詠んだ秀歌は多く、例えば、
武庫の浦には、鶴が干潟で餌をついばみながら羽を休めている姿は一幅の掛け軸を思わせる風景であったのでしょう。
この2首は、自然の厳しさを詠んでいます。
大風による高潮、大雨による水害に悩まされていたことが、雅びやかな万葉集からうかがえるとは意外に思われます。
かつて海水浴場として栄えた香櫨園や浜甲子園の面影はもうありません。防潮堤が横たわり、砂浜に繁茂したコウボウシバの姿は消えました。
しかし、残された干潟には、カニやヤドカリなどの汚染に強い小さな生きものたちが生き続けています。そして、それは新しい生態系を作りあげ、シギやチドリの群れを育てたのでした。この海が何を語ろうとしているのでしょうか。
この海の叫びに、今、耳をかさねばならないのです。浜甲子園海水浴場は水の汚れで閉鎖されましたが、どうにか残された干潟(ひがた)は、いつの間にか、渡り鳥の飛来する、すばらしい自然観測場となりました。
渡り鳥の多くは、イソガニなどを食べますが、そのイソガニは、子どもたちにとっても、素晴らしい友達となっています。
河口に堆積した有機物の多い泥まじりの干潟は、干潟の生き物の絶好のすみ家です。それをねらう鳥もここに集まって、一つの生態系をつくっています。
生き物の多く生息できるところは潮間帯(ちょうかんたい)といわれる部分です。つまり満潮時には水をかぶり、干潮時には干潟となるところが広いほどいいといわれています。
河口近くであったこと、たまたまかつての水族館があったといわれる残骸のコンクリート塊(かい)が並んでいたことが幸いして、そこに土砂が堆積したのがこの干潟です。これらの貴重な小さな生き物の数は減ったとはいうものの、まだまだ生き残っています。岸壁に囲まれた西宮の海岸にしたくはありません。できるだけ砂浜を残そうという願いは、潮間帯の存在を守りたいという願いです。
5月のバードウイーク(愛鳥週間)に合わせて西宮市と西宮自然保護協会共催の「甲子園浜野鳥観察会」が行われます。どこからともなく集まって来るのは、シギやチドリです。地味な色をしていますが、くちばしの形は多様で、せっせと餌のカニやゴカイをさがしまわる様子は見ていても楽しいです。シギやチドリの多くは渡り鳥ですが、日本より南の国と北の国とを往復する旅鳥です。渡の途中の休憩とエネルギー補給のためにしばらく、ここに留まります。
夙川が流れこむ香櫨園浜も、甲子園浜に負けない程の野鳥の楽園です。沖合の埋立地が出来て、浜は入江となって、水面の波も穏やかになって、冬の渡り鳥のカモ類の絶好の越冬地になっています。餌づけを試みる人があって、その餌をねだってカモメも乱舞するようになりました。春と秋には夙川の河口にできた干潟にシギやチドリもやって来ます。アオサギやコサギなどのサギが水際で魚をねらう姿なら、いつでも見ることが出来ます。
西宮の浜辺で見られるシギにはほぼ年中見ることの出来るハマシギもいますが、大部分は日本を渡の途中の休息地にする旅鳥です。ここの浜で栄養をつけて夏には北国へ、冬には南の国へと数千Km もの大移動をするのです。
菊池貝類館13は、館長の菊池典男さんが50年に亘(わた)って収集された貝の中から、約2,000種類が展示されています。菊池さんの収集品の全体の数は、1万個を越え、数え切れないと言っています。
菊池さんは兵隊として出兵し、敗戦後シベリアに抑留されました。そして帰国後、回生病院で歯科医として、兄で院長の菊池武正氏を支える傍ら、世界中を回り、貝類の収集に努めました。そして昭和61(1986)年から収集品を公開するようになりました。菊池さんは大正4(1915)年生まれで現在もお元気で、西宮自然保護協会の会長を務めています。
素朴で小さい博物館ですが、一見の価値があります。菊池さんの恩師が、日本貝類学会の創始者の黒田徳米氏で、黒田博士のコレクションは長くここに一緒に保存されてきましたが、西宮市浜町に市立貝類館が完成したのを機に、分離し寄贈されました。
砂浜を歩くのも気持ちが良いですが、意外と体力を使いますので、舗装道路と組み合わせて歩くと良いでしょう。また、このコースは夙川、津門西宮、鳴尾の各地区と重複する箇所が多いので、いずれかの地域といっしょに歩くのもいいでしょう。