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■ 語り部ノート にしのみや

山口

番号地図のポイント番号です

概要

7世紀初頭といわれる、有馬温泉の発見以来、温泉への入湯経路として山口は発展してきました。山口という地名の由来は、孝徳(こうとく)天皇が有馬へ行幸(ぎょうこう)されたおりに、行宮(あんぐう)造営式として行った山口祭に因(よ)るとの説、近隣の主(ぬし)だった山への入り口とされる説などもありますが、一般には有馬温泉へ通じる功地山(こうちやま)の入り口と考えられています。

明治22(1889)年に有馬郡の名来(ならい)、下(しも)山口、上(かみ)山口、中野、船坂の5つの村が合併し山口村になり、昭和26(1951)年に西宮市と合併ました。昭和40(1965)年以降、宅地開発や区画整理が行われ、交通の面からも中国自動車道、西宮北有料道路の開通により大きく変わってきました。

山地が多く、農地を多くとれないため、この地の人々は副業に頼らざるを得ませんでした。江戸時代からは紙漉(す)きが盛んになり、明治には、その名を内外に広めた竹籠(かご)の製作、そして風土にあった寒天作りが行われてきましたが、今ではほとんどなされていません。こうした目まぐるしい環境の変化の中でも、この町では、伝統文化の保存や、ホタルの保護活動に熱心に取り組んでいます。

船坂

『有馬温泉寺縁起』に、建久(けんきゅう)2(1191)年「和泉吉野の僧仁西上人(にんせいしょうにん)有馬の湯を復興し湯船を船坂で作る。よってこの地を以後船坂と呼ぶ」とあり、船坂(ふなさか)1の地名がおよそ800年も昔に生まれたことになります。有馬への街道として拓いたのは太閤秀吉と伝えられますが、生瀬から大多田川(おおただがわ)に入って、蓬莱峡(ほうらいきょう)から七曲がりと呼ばれた坂を登り船坂に出る道は険しく、むしろ裏道として利用されたようです。また、三田、山口方面から西宮にかよう間道としても役立ったようです。

船坂の寒天

海抜400m近い船坂では寒冷な気候を生かして、寒天作りが始められましたが、それは、明治15(1882)年と言われています。その後、大戦前まではこの船坂川の両岸に10を数える工場が稼動していました。船坂で作られていた寒天は糸寒天で和菓子の材料のほか医療用にも使われていました。平成10(1998)年ぐらいまで西宮高原ゴルフ場正門の北側にあった古薮さんの工場21軒が最後まで操業していたのですが、残念ながら、西宮の寒天作りは現在行われていません。

寒天作りの作業はこの船坂の気温が零下になる厳寒期に、しかも深夜から早朝にかけて行われます。これは重労働で、この季節になると丹波から大勢の職人達がこの船坂に働きに来ました。そのなかで生まれた仕事歌(寒天作り歌)が残っています。その一部をご紹介します。

山がなければ、丹波見ようによ 丹波恋しや、山憎しよ 丹波出るときにゃ、涙がでたよ あいのひで坂、歌で越すよ 心丹波で身は船坂で落ちる涙は、草の上よ 冬は寒天、夏ところ天 わたしゃあなたに有頂天よ

金仙寺湖

金仙寺湖

武庫川にそそぐ船坂川をせきとめ、丸山と対岸の畑山との間に建設されたのが丸山ダム3です。発展の著しい西宮北部の水がめとして昭和52(1977)年8月に完成したこの湖は金仙寺(きんせんじ)湖と名づけられました。名前の由来は戦国時代に、山口の地を支配していた山口五郎左衛門時角(ときすみ)の菩提寺(ぼだいじ)の金仙寺が近くにあったからと言われています。

この貯水池の広さは27万m2で、甲子園球場の約7倍に相当し、貯水量約205万トンと言われています。

善照寺

善照寺 阿弥陀如来立像

善照寺(ぜんしょうじ)4は、寛正(かんしょう)2(1461)年、釈善想によって創設されました。はじめは浄土宗でしたが、蓮如上人(れんにょしょうにん)が来錫(らいしゃく)の折、上人に帰依(きえ)する者が多く、浄土真宗になったと伝えられています。

ご本尊の阿弥陀如来立像(あみだにょらいりゅうぞう)(黄金仏)は、その足が台座から少し浮いていると信じられていることから、別名「浮き足の如来さん」として親しまれています。むかし、ある泥棒が、黄金仏の噂を聞いて寺に入ったのですが、どうしても外に持ち出せなかったそうです。それ以来、浮き足如来さんと台座の間に紙を入れて、如来さんの足形を取り、その紙を家に置いておくと泥棒に入られないとの伝承があります。また、この如来さまが播州上久米村から善照寺にお見えになった際の伝説も残っております。

先々代の住職が船坂小学校の初代の校長を勤め、また養護施設「善照学園」を開き、今も100人近くの子どもたちがここで暮らしています。

なお、この寺の前に細い道がありますが、これが往時の有馬(裏)街道です。

白滝姫の涙水(白水峡のいわれ)

遠い奈良の昔、摂津国(せっつのくに)丹生(たんじょう)山田の里(現兵庫区山田町)に真勝(さねかつ)という若者がおり、時の帝(みかど)、淳仁(じゅんにん)天皇に仕えて厚い信頼を得ていました。ところが右大臣の娘、白滝姫(しらたきひめ)を見染めてからは、恋文を送り続け、その数が千束にもなりました。

これを知った帝は真勝を哀れに思い、右大臣を説いて真勝に身分を越えて姫を娶(めと)らせることにしました。姫は

雲井からついにおつる白滝を さのみ恋ぞ山田男よ

と詠(うた)い、一旦は承諾しました。

ところが姫は夫と共に丹生山田の里に向かうべく、白水峡(はくすいきょう)まで来られた時、突然「たとえ勅命(ちょくめい)とはいえ、こんな山奥まできた我が身が悲しい」とさめざめと泣きました。すると不思議、その涙は川となって流れ出しました。人々は姫の名をとりその川を、白水川(はくすいがわ)5と呼ぶようになりました。

白水峡は禿げた地形がモトクロスの格好の練習場となり、休日には多くのバイクファンで賑わいます。

蓬莱峡

蓬莱峡

六甲山は、先史時代、今から50〜60万年前に隆起し、今も隆起が続いているといわれています。この地殻の圧力により、六甲山系には幾筋もの断層があり、中でも六甲断層(有馬・高槻構造線)は、有馬温泉東部、白水峡(はくすいきょう)、蓬莱峡(ほうらいきょう)6と露岩群が断続的に連なり、船坂から宝塚へと直線的な渓谷が走っていて、素人目にも断層と分りやすい地形をしています。

六甲山を形成する花崗岩(かこうがん)は圧力に弱く、断層の所々では細かい砂に破砕されます。蓬莱峡はこの中でも最も大規模な露岩群で、太多田川(おおたたがわ)が頭部を侵食し、流れに沿って異様な奇観を呈しています。江戸時代の貝原益軒(かいばらえきけん)の『有馬山温泉記』にも剣岩、大剣、小剣などとして描写されており、昔から奇勝・景勝地として親しまれてきました。数多くの詩歌や紀行文もこの雄大な風景を描いています。ここで遭難した座頭(ざとう)の悲話も残っています(後述)。近年では黒澤明監督がここで映画「隠し砦の三悪人」を撮影しました。

また、この太多田川流域は脆(もろ)い砂地で出来ているため、大雨の度に多量の砂を武庫川に流す厄介者で、昭和の初めから延々と砂防ダム工事が続けられ、現在も工事中で、渓谷には入れません。

四十八瀬

生瀬から三田街道と分かれ、琴鳴山(ことなきやま)を南にとって西へ太多田川(おおただがわ)沿いに進むのが昔の有馬街道です。街道といっても川伝(づた)いで、大雨の度に道が変わり、有馬への旅人は、川の流れを右に左に跳びかいながら往来しました。ためにこの道を四十八ケ瀬とか、四十八跳び等と称し、瀬づたいに跳びかう時に、滑ったり、転んだりしました。

この川のことを「うたたび(転び)川」と言っていたことから、転訛(てんか)して太多田川となったと言われています。

座頭谷と知るべ岩

昔、京に住む一人の座頭(ざとう)が、目の治療に良いと言われた有馬温泉に入湯しようと、周囲の制止を振り切って、苦労してはるばる四十八ケ瀬を通ってやってきました。ところが、途中の分岐点で右に行くべきなのを、誤って左の谷に迷い込み、遂に戻ることができずに死んでしまいました。それ以来、人々は彼の霊を慰める意味で、ここを座頭谷(ざとうだに)と呼ぶようになりました。

太閤秀吉が有馬に入湯の折、この話を聞いて哀れがり、川沿いの弘法大師ゆかりの大岩に「右ありま道」と彫りこませたと言います。それが「太閤知るべ岩」7となり、現在もバス停の名前で残されています。

座頭谷は今では数重もの砂防ダムで制御され、昔の面影はありません。

銭塚地蔵

かつて三田から有馬郡を横切って生瀬に出るまでに、6つの古い地蔵があって、この中に、銭塚(ぜにづか)地蔵、木ノ元(このもと)地蔵があり、「北摂の6地蔵」と呼ばれ、街道を行き交う人々の交通安全の祈願所だったと言われていました。

民話では、山口と名乗る武士であった夫と死別した女の人がいて、女手ひとつでふたりの子どもを育て、自分の髪を切って売るほどの貧しい暮らしぶりであったそうです。

ある日、子どもが垣根の修理をしようと穴を掘っていると、たくさんの銭が出てきました。それを母に告げると、「武士たるものがお殿様の役に立たず、お金をいただくのは、家の恥です。お金は元のままに土の中に埋めなさい」と言いました。

その後、立派に成長した子どもたちは、この母の教えを忘れないために、お金を埋めたところに地蔵尊8を祭ったとのことです。

東京の浅草寺に、同じ銭塚地蔵があり、そこに「摂州有馬山口銭塚」と書かれていることから、この時の子どもたちが建立したものと言われています。

山口の人達はこれを「教育のお地蔵さん」として、今も大切に供養(くよう)されています。毎年8月24日には地蔵盆が行われ、参道にはたくさんの幟(のぼり)が立てられ、女の子が浴衣姿で扇子(せんす)を持って優雅にご詠歌(えいか)踊りを奉納します。

山口の盆踊り

山口袖下(そでした)踊りと扇(おうぎ)踊りがあります。袖下踊りは約1300年の昔、孝徳(こうとく)天皇が有馬へ行かれる途中、山口の里に立ち寄られた(後述)のを人々が身振り手振りで喜びを表現し、歓迎の気持ちをあらわしたのがこの踊りの始まりと言われています。肘(ひじ)関節以下に表情をこめて踊る女性的な優雅な踊りです。

一方、扇踊りは山口の特産品と関係があります。以前、山口では扇の地紙を製造して京都の祇園(ぎおん)へ出荷していましたが、その返礼として祇園の舞子さんが自ら振り付けをして送ってくれたのが扇踊りです。袖下踊りに比べると男性的な踊りです。昭和49(1974)年に無形民俗文化財として市の指定となりました。

山口の大ケヤキ

国道176号線の、ちょうど有馬川に沿った曲がり角、郵便局の傍(かたわら)に、大ケヤキの木9があります。

昭和57(1982)年に西宮市の天然記念物に指定されています。樹齢250年、胴回り直径1.1m、高さは12.2mで、真下から見上げると、その雄大さに吸い込まれそうです。網目状に樹皮がはがれて、長い年月、立ち続けてきた姿から、大きなエネルギーが伝わってくるようです。

公智神社

公智神社

山口の中心となるのが、山口の氏神(うじがみ)の公智(こうち)神社10と言われます。およそ1300年前(大化3〔647〕年)に孝徳(こうとく)天皇が有馬温泉へお行きになる際、約3か月間この山口の里に仮住まいを造られる事になり、その時、近くの久牟知山(くむちやま)から切りだした材木が、あまりにも美しかった事からこの山は「功ある山なり」と言われました。すなわち功地(こうち)、そして時代とともに名前が変わり、現在の公智神社として祀(まつ)られています。地元では「こうち」神社として呼ばれています。祭神は木材の神といわれる久々能智の神(ククチノミコ)です。

この神社は広田神社と共に平安時代の延喜式(えんぎしき)にも言及があり、その時代の天皇と何らかの関係があったと思われます。みこし殿は室町時代の建物で、市の指定文化財になっています。神仏習合思想を表していると言われています。その他の建造物は中世以降、たびたび火災にあってほとんど残っていません。

公智神社が1年を通じ最も賑やか時は秋祭りです。各町内ご自慢の7台の見事な「だんじり」が1台づつ神社の坂を駆け登るさまは、たいへん勇壮で、大勢の見物人も思わず息をのみます。そのあと名来(ならい)地区の獅子舞が奉納されます。

孝徳天皇行宮所

第36代孝徳(こうとく)天皇(597〜654)は、前帝皇極(こうぎょく)女帝の弟で、大化の改新、班田収授(はんでんしゅうじゅ)の法などの改革で知られますが、実は、その甥であった、時の実力者中大兄皇子(なかのおおえのおおじ)(後の天智(てんじ)天皇)の傀儡(かいらい)に過ぎませんでした。しかも、その皇后間人皇女(はしひとのひめみこ)と中大兄皇子は実の兄妹で、その恋愛関係は古代史のミステリーとなっています。

その鬱屈を癒すべく、帝(みかど)は有馬温泉に行幸(ぎょうこう)されましたが、ここはその跡地11です。そして帝は有馬温泉を気に入られ、息子に「有間皇子(ありまのみこ)」と名づけたとも言われています。しかし有間皇子もやがて中大兄皇子の謀略にかかり、讒訴(ざんそ)され、謀反(むほん)の罪で紀州で殺される(辞世の和歌2首が万葉集にある)という悲劇の天皇でした。

そういう訳か、孝徳天皇は、勅願(ちょくがん)により神戸摩耶山(まやさん)に「天上寺(てんじょうじ)」を創建し、はるか大和の地を睨(にら)んで、呪詛(じゅそ)と、反撃の機を窺ったとも云われています。

明徳寺

明徳寺 阿弥陀如来立像

明徳寺(みょうとくじ)12は貞享(じょうきょう)3(1686)年、火災で焼失しために創立年も、開基も不詳。しかし蓮如上人(れんにょしょうにん)や教如(きょうにょ)上人の事跡(軸など、1477年)が残されており、下って江戸期には再建されて山口惣道場(そうどうじょう)として栄えたようです。

本尊の阿弥陀如来立像(あみだにょらいりゅうぞう)は快慶(かいけい)の作と伝えられ、元国宝、現在は国指定重要文化財です。この像は元、上(かみ)山口村の永蓮寺(史料は無い)にありましたが、寺が兵火で焼失して、当寺に移転・安置されたと伝えられています。

阿弥陀如来は、平安末期に流行した阿弥陀信仰(「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで極楽往生ができる)によって盛んに作られ、全部で9つの姿がありますが、ここの阿弥陀さまは第3番目の「上品下生(じょうぼんげしょう)」の指の印(いん)を結んでいます。ふっくらとした頬と、凛(りん)とした眉目(びもく)に鎌倉後期の彫刻の特徴が出ていると言われています。

因みに、この近辺で快慶(かいけい)の有名な仏像は小野の浄土寺の阿弥陀如来立像(国宝)です。

有馬川

有馬川

六甲山地から武庫川に合流するまで、三田盆地をゆったり流れている二級河川有馬川(ありまがわ)。河川は南流するのが当たり前と感じている者には、北に流れている川は新鮮に映ります。かつて戦前の一時期、三田から有馬まで右岸を有馬鉄道が走っていました。

かつては有馬温泉の排水が流れ込む、水質の良くない河川でしたが、神戸市の下水道整備が進み、今ではホタルの舞う川として知られています。

市街化の進む山口町の中心部を流れているため、有馬川沿いに緑地を配置して地域の生活幹線緑道にしようと、明治橋から十王堂橋までの間の緑道13の整備工事が完了、

それに伴い平成8(1996)年から「ひょうごっ子きょうだいづくり」の一環として、ホタルの保護活動が始められ今日に至っています。

中野の大カヤ

中野の大カヤ

山口町中野にそびえるカヤの木は、「山口の大カヤ」14と呼ばれ、県の天然記念物にも指定されています。『有馬郡誌』にも「一樹以って森をなす」と記載されているほどの古木です。幹の途中からは7本の枝が四方に伸び、根回り5.5m、樹高約20m、樹齢は500年ないし600年と推定されています。

カヤの木の持ち主は、平家の流れをくむ一ッ家さんですが、毎年l 月15日には「カヤの木まつり」の神事を行い、一族の繁栄と地域の発展を感謝する行事を続けられています。

カヤ(榧)は、イチイ科で、常緑高木、葉は深緑色です。10月頃実がなり、その実から油がとれます。材質が固く家の土台や橋材、碁盤などの材木として使われます。

山口散策コース

上下の山口、中野の地区は徒歩で回れる範囲にありますが、それ以外の地域は距離が離れており、徒歩だけで回るのは難しいでしょう。いずれの地区も宝塚または有馬から阪急バスが運行されていますが、旧有馬街道沿いの、白水峡(はくすいきょう)、船坂(ふなさか)、蓬莱峡(ほうらいきょう)などは、便数が1時間に1本程度とわずかです。また金仙寺(きんせんじ)湖は、マイカーの利用が不可欠となります。

上下の山口、中野の地区は、徒歩をお勧めします。ただし、道幅が狭く通行量も多いので、注意する必要があります。下(しも)山口→上(かみ)山口→有馬温泉と有馬川を遡行するのがよく、上山口からしばらくは有馬川の右岸(昔の有馬鉄道の廃線跡)を辿り、最後は有馬温泉で汗を流すのがベストです。

語り部マップ
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