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■ 語り部ノート にしのみや

瓦木

番号地図のポイント番号です

概要

瓦木(かわらぎ)地区は、地形的に東は武庫川に接し、山や丘陵はまったくなく、武庫平野の一部を画(かく)す平坦な土地のみで形成されています。明治の初めころまでの、上瓦林(かみかわらばやし)、瓦林、下(しも)瓦林を含む瓦林庄と、大市庄(おいちのしょう)の一部である高木(たかき)の地域が今の瓦木地区です。明治22(1889)年の町村制実施の際、高木は、甲東村に属さずに、荒木新田、上(かみ)新田、中新田、上瓦林村、下(しも)新田村、瓦林村、下瓦林村とともに8か村をもって瓦木村を形成しました。新村名の「瓦木」は、瓦林の「瓦」と高木の「木」をあわせたものです。

この地区の新田開発は江戸時代に始まりました。老中であった青山大蔵少輔幸成(おおくらしょうゆきなり)は、尼崎藩主となった翌年の寛永13(1636)年、武庫川西堤に沿う上瓦林、下瓦林地域内の荒れ地の開墾を企てました。寛永14(1637)年から助兵衛(すけべえ)新田(後に上新田)と久右衛門新田(後に下新田)、5年後には五良右衛門(ごろうえもん)新田(後に中新田)が開かれました。ついで19年たって、荒木新田が開発されました。19年間で4つの村が新しく生まれたことになります。

西国(さいごく)街道や中国街道のような主要交通路が通っていなかった瓦木地区は、長い間、田畑が広がっておりましたが、大正9(1920)年に西宮北口駅、昭和9(1934)年に甲子園口駅が開設され、住宅地や商業地として発展していくことになります。

とくに、甲子園口駅は、設置費地元全額負担という条件での誘致であったため、開設に至るまでには尋常一様の努力ではおよびませんでした。村民の強い願いと村長を筆頭にした関係者の懸命な尽力によって実現された駅です。

こうして交通網の発達などがあった結果、瓦木地区の戸数、人口は増加していきました。西宮北口駅開設の翌年、大正10(1921)年末には戸数475、人口2368人になり、甲子園口駅の設置された翌年、昭和10(1935)年末には戸数1,985、人口8,906人となりました。戦前から住宅地として開けたこの地域は、戦後ますます農地の宅地化が進み、残された農地はごく僅かとなりました。

西宮北口(高木地区)界隈

阪急神戸線と今津線の平面交差

高木東町、西町は旧高木村の中心部でしたが、大正9(1920)年に阪急神戸線が開通し、両町の西側、今の北口町に西宮北口駅1が開設されたことにより、しだいに住宅地化しました。大正10(1921)年に北口・宝塚間、大正15(1926)年に北口・今津間と阪急が開通するに及び、西宮北口駅は阪神間の中心的な駅として利用されるようになりました。

駅の東北は、北口市場などの商店街が形成され、商業地として発展しました。この地は不幸にして阪神大震災で大きな被害を受けましたが、平成13(2001)年、複合施設「アクタ西宮」として生まれ変わりました。

駅から阪急西宮車庫の前を通って東北に進みますと八幡神社2があります。八幡神社は主祭神が譽田命(コンダノミコト)(応神(おうじん)天皇)で、境内にはむかし、2本の松の大木がありました。夫婦松とよばれ、これが高木村の村名の由来になったといわれています。

八幡神社の東にあるのは熊野神社3です。主祭神は伊邪那美命(イザナビノミコト)で、中世末期以前創建されたと言われています。境内は西宮市の景観樹林保護地区となっています。八幡神社と熊野神社は両社に共通の祭神も祭られており、この辺りの高木地区の産土神(うぶすなかみ)となっています。

一麦保育園

一麦寮

園名の「一麦(いちばく)」は創設者の賀川(かがわ)豊彦氏の著書『一粒の麦』にちなんで名づけられたものです。この書名は聖書の中の言葉「一粒の麦もし地に落ちて死なずばただ一つにてあらん。もし死なば多くの実を結ぶべし」に由来します。

賀川は『死線を越えて』『一粒の麦』などの本の印税で、昭和3(1928)年に農民福音学校を自宅に開校し、昭和6(1931)年、この地に一麦寮を建設しました。そこでは、地元ばかりでなく全国の農村青年およそ30名が毎年1月10日から約1か月間合宿生活をしました。賀川豊彦氏と杉山元治郎氏が、聖書にもとづく教育と農業の多角経営を指導したのです。昭和18(1943)年まで続きました。

昭和7(1932)年に一麦寮の土地にバラック園舎が建てられ、多忙な農家の子どもたちを預かる託児所が始められました。これが現在の一麦保育園4の前身です。この保育園はキリスト教保育ですが賀川豊彦氏の信念である地域に根ざした児童福祉施設として貢献しています。地域全体の子育てを支援するために「育児カウンセリング」「地域子育て支援事業」「在宅子育て母親サークル活動支援」等の活動をしています。

賀川豊彦氏は牧師であり、社会活動家です。私たちの身近にある生活協同組合の創設者です。貧しい人々の生活を、多岐にわたって、守り、救済した活動家でした。昭和35(1960)年ノーベル平和賞の候補にあげられながら決定前に亡くなりました。

日野神社

瓦林城跡(日野神社)

日野(ひの)神社5の入口から本殿まで北向きにのびる道は、非常に細く、まわりはうっそうとした雑木林(ぞうきばやし)で囲まれています。このあたりは南北朝時代に築かれた瓦林(かわらばやし)城の跡です。日野神社は、瓦林彈正左衛門が瓦林氏の守護神として勧請(かんじょう)創建したと伝えられますが、証(あかし)はありません。

瓦林城瓦林三河守(みかわのかみ)は越水城(こしみずじょう)を築いた瓦林正頼(まさより)の子孫で、織田信長方に属して戦っていました。1556年に越水城の戦で三好(みよし)三人衆の軍に敗れ、一時、身を潜めていましたが、信長の入京で敵軍が退いたため、瓦林城に入りました。平城(ひらじろ)の瓦林城は実戦に不向きだったようで後に城攻めにあって、その日のうちに落城しました。現在、瓦林城址の石柱が境内にあります。

元亀(げんき)元(1570)年、三河守は討ち死にして、城も途絶えてしまいました。三河守の墓は、極楽寺に残っています(極楽寺の項を参照)。

昔は、社僧(しゃそう)といって神社の手前に寺があったようです。神仏分離の名残りとして、左手のほこらの辺りに小さい石(五重の塔のひとつ)がひっくり返っているのを見ることができます。

日野神社の社叢(しゃそう)は、県の天然記念物にも指定されており、武庫川の沖積(ちゅうせき)地に発達した常緑広葉樹林です。都市化の進んだ大阪平野における寺社林としては、他に類をみないほど大規模なもので、学術的評価も高く、クスノキ、ヤブツバキ、サカキをはじめとする約200種類の暖地性常緑広葉樹林が野生状態で成育し、野鳥の天国にもなっています。

宮司(ぐうじ)の宮崎氏(大震災翌年死亡)は、幼い頃にキツネを見かけること、しばしばということを話されていました。

また、キリシマツツジの名所でもあります。毎年4月3日が、すし節句です。川遊びや山遊びをする年中行事で、これが過ぎれば田植えにかかるという時代があったようです。

上瓦林、瓦木支所周辺

旧上(かみ)瓦林村の中心は、現在の瓦林町と大屋町のあたりでした。瓦木村誌によると、上瓦林村の発祥地は今の熊野町付近で通称「元屋敷」と呼ばれていたと言います。おそらく武庫川の洪水で被害を受け、その元屋敷から集落がこの周辺に移転してきたのでしょう。

上瓦林村の村民は、日野神社より勧請(かんじょう)の古い厳島(いつくしま)神社6(現在の上之町所在)を村の鎮守としていました。祭神は、市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)です。その後、上(かみ)新田、荒木新田ができて3か村共同の氏神(うじがみ)でした。それが大正の初期のころ、上瓦林村は氏子(うじこ)から離れました。

瓦木支所の前身、瓦木村役場は、はじめ字天道田(あざてんどうだ)(当時の住所名)に置かれていました。その後、各所に移転しています。明治35(1902)年には小学校の校舎が手狭になったので村役場を校舎に充当し、高木の古塚徳治郎氏所有の建物を借りて、村役場にしたということもありました。昭和9(1934)年3月、村役場の庁舎を新築しました。今の瓦木支所7のある場所です。昭和17(1942)年西宮市との合併で解村しました。

極楽寺

五輪墓塔(極楽寺)

この瓦木支所の北に極楽寺があります。極楽寺は浄土宗知恩院の末寺で、瓦林(河原林(かわらばやし))三河守(みかわのかみ)の建立と伝えられていますが、確かな証(あかし)はありません。しかし、明治初めまで日野神社に存在した供養(くよう)堂にあった三河守の位牌(いはい)が、この極楽寺に安置され、境内には五輪の墓塔もあります。その墓塔には、三河守の戒名である「廣林院(こうりんいん)」や三河守が三好(みよし)軍に攻撃され一族が滅亡した年である「元亀(げんき)元年」の字も刻まれています。その墓塔は阪神大震災で寺が被害を受けたので、境内の別の場所に移されました。

天保12(1841)年10月12日、この極楽寺で北郷樋(ほくごうひ)事件(鳴尾地区参照)の関係者を招き、250回忌を盛大に行いました。このとき、瓦林村側に加勢した津門、廣田、高木の各村のみならず、紛争の相手方である鳴尾村の犠牲者や関係者はもちろんのこと鳴尾村に加勢した東西大島、濱田、芋、今村(すべて現尼崎市域)の村々も招いたことが知られています。

明治22(1889)年4月25日には極楽寺で最初の村会議員選挙が行われ、12名の村会議員が選ばれました。初めての小学校も極楽寺で開かれました。それは、明治6(1873)年3月15日の創立で、開文小学校と称しました。上瓦林村ほか7か村(後の瓦木村の各大字)の連合設立で校舎は極楽寺本堂を借りて開校したのでした。

瓦林組大庄屋岡本家

この瓦木支所の南に、岡本家があります。岡本家は、近世初頭から上瓦林村の庄屋だけでなく、元禄8(1695)年から明治4(1871)年まで、176年間の大半の149年間(途中で2回、中断があった)尼崎藩瓦林組大庄屋(現尼崎市域をも含む20余か村をまとめる)を務めた豪農でした。

同家には庄屋、大庄屋を務めた、江戸時代の全時期にわたる管内村々に関する各種史料が残されています。尼崎藩武庫郡(むこのこおり)村々の大半を含んで管轄した大庄屋の史料だけに、一村に関する庄屋史料と違って、史料にでてくる範囲、領域は広く、尼崎藩領全域(大阪湾沿い尼崎―須磨の間)のことも知ることができます。しかも、この地域が当時における日本の最先端地帯である大阪周辺の農村であるため、特に、その史料価値は高いものがあるのです。尼崎藩が村々に出した法令・触書(ふれがき)、村々および大庄屋から藩に提出した文書(もんじょ)、それに岡本家の家の個人記録などに大別される史料が豊富にあり、これによって多くのことが明らかにできるのです。かつて西宮市史が編纂された際、岡本家文書の目録が作成され、史料価値の高い主要な文書・書冊・横帳、合わせて約2万点が整理されましたが、その後、同家の改築などの際、新たに発見されたものも多く、総点数は約4万点に達すると思われます。これらは、昭和54(1979)年3月に一括して市の重要文化財に指定されました。

また、岡本家は、西宮地方での商業的農業がいかに効率的であったかを示す例としても注目されています。同家は保有地が当初より倍増し、寛永4(1792)年には、所有田畑8町7反余もありました。しかも、その84%にもあたる7町3反余りが自作農でした。家族のほか年季奉公人や日雇いを入れて経営したのです。岡本家は、全国でも類例をみない大きな自営農家となりました。

熊野神社

算学神社(熊野神社内)

熊野神社8は昔から若王子(わかおうじ)の宮として親しまれてきました。この辺りは、広井の荘といって鎌倉時代前から開けた荘園で西宮の古社のひとつです。

荒地に住みついて開拓が始められ、人々が集まって村ができ、村人たちの発想で産土(うぶすな)神社がつくられ、神殿を守る鎮守の森が創祀(そうし)されたのが起こりです。祭神は伊邪那美命(イザナビノミコト)です。

もちろん、熊野の本宮からの勧請(かんじょう)があったと思われますが、いつごろか明確ではありません。改築の際、伐(き)り倒した松は樹齢500年を数え、甲山の山頂からも見ることが出来たと言われています。また、明治29(1896)年の洪水で荒野となり、その後、新に育った松を境内に見ることが出来ます。

境内には寛永(かんえい)17(1640)年に寄進された石燈籠(いしどうろう)1基があり、市内最古のもので貴重文化財です。

もうひとつ、境内には、我が国の数学の祖といわれる毛利重能(しげよし)の碑があります。瓦林の住人で豊臣秀吉に仕えたといわれ、明に留学して数学を学び、珠算の新しい方法を考案しました。日本で初めて出版した数学書『割算書』は実用的な利息計算、測量、枡桶(ますおけ)の容量などで、当時の経済発展に大きく寄与したといわれています。また、京都で「天下一割算指南」の看板をあげ、毛利の三子をはじめ多くの門人を育てました。

新堀川

新堀川は1636年に掘られました。別名を裏川と言い、古くは返し堀とも称されました。武庫川西側の荒れ地の開発は、尼崎藩主だった戸田氏鉄(うじかね)も着眼したようですが、これを果たさずに移封(いほう)されました。

文字どおり「新しく掘らせた人口の川」は、1635年に、遠州掛川(えんしゅうかけがわ)から青山幸成(ゆきなり)が尼崎藩主となるや、翌1336年、武庫川西岸に沿った荒れ地の開墾を企てました。まず、この川によってあらかじめ灌漑(かんがい)用水を手当することとし、村民が水路を掘削するよう、上(かみ)瓦林庄屋佐兵衛(さへえ)、下(しも)瓦林庄屋八兵衛(はちべえ)に命じました。この年の間に完工すべしというのが条件でした。

この新堀川の水は、武庫川の伏流水(ふくりゅうすい)が湧(わ)き出したのを溜(た)めた鯨池(くじらいけ)から流れ出しています。鯨池は、武庫川の西堤下、上大市(かみおういち)(現甲東地区)にあります。武庫川連続堤と新堀川の完成で、武庫川と除堤(よけづつみ)との間の開発が大きく進展しました。新堀川の用水は、主に荒木新田を除いた3つの新田の灌漑用水に定められ、一部は上(かみ)瓦林、瓦林、下(しも)瓦林の用水となりました。

新堀川の流路は、鯨池から武庫川沿いに西堤を南に下り、JR 線の南あたりから南西に向きを変え今津方面に流れます。流末は、上瓦林、瓦林、下瓦林の百間樋(ひゃっけんぴ)用水路の主流である大川(別名蓮華寺川(れんげじがわ))と今津の地内に入って合流し、新川(別名東川)となって海に注ぎ、川口は今津港の一部となっています。

下瓦林村絵図の下瓦林地域

旧下瓦林(しもかわらばやし)村の中心は、現在の甲子園口5丁目と6丁目を隔てている南北に通る道の付近9です。下瓦林村は、南部の蓮華寺(れんげじ)と北部の松門(まんど)とに区分けされています。南丁、北丁などとも称しました。昔、蓮華寺村と松門村のふたつの村が合併して下瓦林村を形成したともいわれています。もともとふたつの村であったのか、元来からひとつの村であったのか、考証する史料はありません。しかし、現在の甲子園口5、6丁目の東方に、古松門という小字があったのを見ると、松門は、その古松門を中心とした地域にあったのが、武庫川の水禍か何かのために、移転してきたのではないかと思われます。

この旧下瓦林村のあたりを、元禄3(1690)年に絵図としたものが残されています。それは「下瓦林村絵図」で、「下瓦林村絵図」は、旧下瓦林村の旧家である松井為吉郎氏所蔵の絵図です。

絵図の入っている袋の表には「元禄三午年下瓦林村絵図之袋十一月日」とあり、裏に「村上清右衛門様御代官御役之時分庚午十一月組中一統村絵図致し差上候写し」とあって、つづけて58軒の家数を記し、さらに「文政十二年巳丑年六月写之下瓦林村庄屋代治郎左衛門所持」とあります。1690年に作成され尼崎藩に提出されたものの写しを、庄屋代を務めていた松井家の先祖の治郎左衛門が、140年ほど後の文政12(1829)年6月に、これを写して、所持していたものであることがわかります。

武庫山澄心寺

甲子園6丁目に薬師(やくし)児童遊園があります。これは鎌倉末期に、武庫山澄心寺(むこさんちょうしんじ)(臨済(りんざい)宗。開基の普園国師(ふえんこくし)は後に京都の東福寺や南禅寺の住職を歴任した高僧)が、この下瓦林に存在していたことの名残です。

当代きっての高僧を迎えて創建された澄心寺は五山(ござん)・十刹(じっせつ)に次ぐ諸山という寺格を誇り、盛時には五子院(ごしいん)を有したと伝えられます。その後、衰微して寺の跡もわからなくなりました。この薬師児童遊園は、同寺の本尊薬師如来(にょらい)を安置した薬師堂が、第二次大戦末期まであった場所です。

なお、上甲子園2丁目に澄心寺10があります。往時、高い寺格を誇った澄心寺の名は、第二次大戦後、近接の観音寺を併合して高野山真言宗に属し、寺名のみ継承され、名残をとどめています。本尊である薬師如来は応安(おうあん)元(1368)年につくられたもので、現在も澄心寺に安置されています。

下瓦林には澄心寺がありましが、後に衰微したため、下瓦林は他村寺院の檀家(だんか)となりました。享保(きょうほ)以前の菩提寺(ぼだいじ)は、鳴尾の真宗仏光寺派の浄願寺(じょうがんじ)(鳴尾義民の墓がある寺)でした。それが享保7(1722)年8月ころ浄願寺から離れました。

なお、天正(てんしょう)の北郷樋(ほくごうひ)事件(鳴尾地区参照)が原因で浄願寺を捨てたといわれるのは誤りのようです。浄願寺のひとりの若い僧が独立を企てたのが原因です。その後、若干の紆余(うよ)曲折を経て、南丁は、尼崎の常松淨正寺(つねまつじょうしょうじ)に、北丁は宝塚の小浜毫摂寺(こはまごうしょうじ)を菩提寺としました。

御代開公園と御代村

武庫川の氾濫原(はんらんげん)に松などの雑木(ぞうき)が自生した地が「河原林(かわらばやし)」と呼ばれ、それがいつのころからか「瓦林」と当て字されたと思われます。中世以前に生まれ、近世に瓦林荘の名を継いだ村は、この瓦林と上(かみ)瓦林、下(しも)瓦林の3つの村でした。

瓦林村は、別名、御代(みよ)村とも言われています。豊臣氏の直轄領でした。徳川時代になって慶長(けいちょう)15(1610)年、徳川氏家臣石川(後に石河(いしこ)と改めた)氏の領地となり明治まで続きました。上瓦林村、下瓦林村が元和(げんな)3(1617)年より尼崎藩に引き継がれたのに対し、瓦林村だけが違う統治を受けたことになります。

瓦林村、別名御代村は、この御代開(みよびらき)公園11に名を残すのみで、村の跡形はどこにも残っていません。旧村名「御代」の意味は、おそらく大阪市のシンボルの「澪(みお)つくし」の澪と同じく水路であり、かつての氾濫原の中の川筋添いに比較的早く開かれたのが、この瓦林村(御代村)だったのでしょう。近世の新開地が御代開であったのでしょうか。

甲子園口駅

マンボウ・トンネル(甲子園)

甲子園口駅は、地域住民の熱望と岡田村長のリーダーシップとがあって、はじめて生まれた駅と言えます。

昭和7(1932)年5月初旬、東海道線(現JR)の電化計画が新聞で発表されましたが、瓦木村は、鉄道大臣に新駅設置請願書を提出して、新駅誘致競争に名乗りをあげました。翌年、大阪鉄道局庶務課長から、新駅設置費92,000円および約1,500坪の土地の寄付を条件として設置許可の内意が伝えられました。当時の92,000円は、瓦木村財政の経常歳出の2か年分に相当する金額で、非常に大きな金額でした。

多くの村当局の関係者たちは、この莫大な寄付金の調達は、とうてい見込みがなく、断念もやむをえないという意見でした。ところが、岡田村長の奔走の結果、費用の大半を新駅設置で大きな利益を受ける加賀土地株式会社(現甲子園口駅北部一帯、約5万坪を所有していた)が引き受け、5,000円と駅の北側半分の土地を下新田が提供することになりました。残りの20,000円と用地の提供は大変難しい問題です。そこで以前から構想があった甲子園口土地区画整理組合を設立し、費用と土地を捻出することになりました。

新駅は、昭和8(1933)年12月1日に工事が着手され、昭和9(1934)年7月20日、いよいよ待望の電車運転が開始され、新装成った甲子園口駅に初めて電車が発着しました。甲子園口駅は、開設後、乗降客が年を追うごとに急激に増加し、数年もしないうちに、阪神間での主要駅に成りました。

現在、甲子園口駅の北側、南側の区画整然とした住宅地を見ると、土地区画整理組合の開発に貢献した事績は、極めて大きいものがあります。関係者の功績を称(たた)えなければならないでしょう。

瓦木散策コース

阪急西宮北口駅を出発して、高木八幡神社、一麦保育園、高木熊野神社、厳島(いつくしま)神社、日野(ひの)神社、上瓦林(かみかわらばやし)、瓦木支所周辺(極楽寺、岡本家)、甲子園口熊野神社から新堀川の川べりを通り、マンボウトンネル12でJR 線をくぐり南側へ、下瓦林村絵図の下瓦林地域をめぐり御代開(みよびらき)公園で終着です。

このコースは鎮守(ちんじゅ)の森めぐりのようでもあります。これは、瓦木が長い間、農村中心の地域だったことを証明しています。この地域全体が、熊野神社(甲子園口)の項で述べたような生まれ方だったのでしょう。このコースをたどると地域の特徴がよくつかめると思います。

語り部マップ
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